朴正煕の暗殺
日韓基本条約やベトナム戦争への参戦を通じ「漢江の奇跡」を成し遂げた朴正煕は、国内政治での発言力を強め開発独裁を推し進めました。1973年に起きた金大中拉致事件では、日本滞在中の金大中を韓国中央情報部が拉致し、韓国に連れ去るなど強硬策が目立つようになります。
こうした朴正煕の姿勢は反感を買うに十分だったのかもしれません。1974年、北朝鮮の工作員に使嗾された文世光は、朴正煕大統領の暗殺を謀りますが失敗しました。この時、文世光が撃った銃弾にあたり朴正煕夫人の陸英修が死亡します。
1979年、韓国中央情報部の金載圭部長が朴正煕大統領に叱責されたことなどを恨みに思い、朴大統領と側近の大統領警護室長を暗殺する10・26事件が起きました。これにより、朴正煕の独裁政権は突然の終わりを迎えます。
粛軍クーデタと光州事件鎮圧で全権を掌握した全斗煥
朴正煕の暗殺後、韓国では「ソウルの春」とよばれる民主化運動が起きました。しかし、保安司令官の全斗煥少将や第9師団長だった盧泰愚らが中心となり粛軍クーデタを決行。さらに、軍権を掌握した全斗煥らは戒厳令を布告し、金大中らを拘束します。
強権的な彼らのやりかたに全羅南道の光州市では、学生らが抗議のデモを行いました。光州の市民らは戒厳軍による強圧的な暴行に反発。デモ参加者は20万人まで膨れ上がります。
1980年5月、光州市民たちは武器庫を襲撃し武器を強奪すると全羅南道の道庁を銃撃戦の末、制圧しました。戒厳軍は一時、光州市から撤退し周辺を包囲します。5月27日、25,000まで増強した韓国軍は光州市に突入し制圧しました。
光州事件を鎮圧した全斗煥は韓国の全権を掌握し大統領となります。全斗煥は朴正煕の開発独裁を継続させました。
オリンピック開催と国際連合への加盟
1987年、民主化を求める六月民主抗争により全斗煥は大統領を辞任します。全斗煥の後を継いだのが盧泰愚でした。盧泰愚は全斗煥とともに粛軍クーデタを行った人物ですが、この時は選挙により大統領に就任します。
1988年、韓国ではソウルオリンピックが開催されました。ソウルオリンピックの開催は「漢江の軌跡」に始まる経済成長で韓国が経済力を身に着けたことを世界に示すことになります。
1989年12月、アメリカのブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ書記長が地中海のマルタ島で会談。冷戦の終結を宣言しました。1990年には東欧諸国が相次いで民主化します。
冷戦の終結という世界的な流れは朝鮮半島にも及びました。1991年、韓国と北朝鮮は同時に国際連合加盟を果たします。
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「漢江の軌跡」を成し遂げた朴正煕の業績は功罪相半ばする
朝鮮戦争の戦禍により、韓国は世界最貧国となるまで貧困化しました。クーデタで韓国大統領となった朴正煕元大統領は日韓基本条約の締結やベトナム戦争への参戦を通じ経済復興の資金を獲得。その資金を使って韓国経済を飛躍的に発展させました。その一方、朴正煕の開発独裁は人民の自由を奪うもので、朴正煕のやりかたは全斗煥にも受け継がれるなど韓国の民主化の阻害要因となったことも確かです。その意味で、「漢江の軌跡」を実現した朴正煕の評価は功罪相半ばするというべきでしょう。