日本の歴史江戸時代

江戸の町の大半を焼いた「明暦の大火」日本史上最大の大火災をわかりやすく解説

広小路・防火堤・新たな町割り……火事に強い町づくり

木造建築と空っ風。徳川幕府といえども、この2つをどうこうすることはできません。

求められるのは「火事に強い町づくり」。明暦の大火の後、江戸の町では様々な防災都市改造計画が推し進められていきました。

江戸幕府にとっては、江戸の町の再興も重要課題ですが、最重要課題は何といっても「江戸城の再建」。焼失してしまった江戸城を再興し、再び火災が起きても江戸城に飛び火しないような町づくりをしなければなりません。

そこで、それまで江戸城内にあった御三家(尾張・紀伊・水戸)の藩邸や寺院などを城外へ。空いた土地を更地にして馬場などに活用し、城内の建物と建物の間隔をあけて火災が飛び火しにくい構造に作り変えていきました。

城下の構造も大きく変更。焼失した武家屋敷や寺社を移転させて土地を作り、町を拡充。道幅を広げ、万が一火災が起きた場合でも避難しやすいよう町全体を整備します。

また、住宅密集地においても、町内のあちこちに火除け用の土手や火除地を設置。延焼を食い止めるための対策が施されます。

さらにこの頃から、茅葺きや藁葺きなど燃えやすい素材ではなく、漆や蛎(牡蠣・カキ)殻を用いた屋根の建物が奨励されるようになっていきました。

蕎麦・寿司……町の復興とともに発展した外食産業

このように、江戸の町の復興作業は急ピッチで進められていきました。

それに伴って、復興作業のために全国から大工や鳶食、左官職人などが大勢集まってきます。

職人たちのほとんどは単身赴任。肉体労働に明け暮れる独り者たちのために、総菜を売る商人や屋台、食事処などがどんどん増えていったのだそうです。

火災を防ぐため、庶民向けの住宅は、煮炊きできる台所のない長屋がほとんど。もちろん内風呂もありません。そこで流行ったのが食べ物を売って歩く行商。時代劇などで「天秤棒を担いで売り歩く行商」を見た記憶のある方も多いと思いますが、実際、江戸の町には、あの「振売り」というスタイルで焼き魚や煮物を売り歩く行商人がたくさんいました。
さらに、簡単な設備で場所を移動しながら商売をする屋台スタイルも流行。人が多く集まる往来や船着き場などに店を出し、多くの人々の胃袋を満たします。

こうした屋台スタイルは、パパっと手早く食事を済ませたい単身者たちにとってもありがたい存在でした。現在でいうところのファーストフード的存在。ここで人気だったのが、ウナギや蕎麦、寿司といったメニューでした。寿司は今でこそ高級なイメージがありますが、江戸時代の江戸の町では、小腹が空いたときにちょっとつまむ立ち食いスタイルの食べ物として普及していったのだそうです。

美味しいものをおなか一杯食べれば働く気力もわいてくる。労働者たちに1日3食(それまでは朝夕2食が一般的)がっつり食べて、江戸の町の復興に汗を流したと考えられています。

その時歴史が……江戸の町を大きく変えた「明暦の大火」

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消防技術が進んだ現代でも、火事は深刻な災害です。特に倉庫などの巨大建造物や山火事など炎が広範囲に及ぶと、高度な消火技術をもってしても鎮火が難しいこともあると聞きます。今から400年も昔に起きた明暦の大火。多くの犠牲者を生んだ災害は江戸の町を大きく変えましたが、残念ながら、その後も何度か、江戸の町では大火災が発生。火災はゼロにはならなかったようです。大きな災害は多くの命を奪い、人々の生活を変えてしまいますが、そこから学ぶことも多い。普段、何かと油断しがちですが「火事は怖い」ということを、改めて心に留めておこうと強く感じました。

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