解体新書に関わった人たち
〇中川淳庵
『解体新書』後も語学の勉強をして、スウェーデン人の博物学者カール・ツンベリーから教えてもらう。
〇桂川甫周
初期から翻訳に参加。中川淳庵と共にツンベリーに教えてもらう。大槻玄沢と一緒に蘭学を発展させる。
〇桂川甫三
桂川甫周の父。参考資料にオランダの医学書を提供。
将軍の奥医師で、禁書にならないように将軍家に『解体新書』を献上。
〇大槻玄沢
杉田玄白と前野良沢の弟子。誤訳も多かったのを改訂して『重訂解体新書』を刊行。
〇吉雄耕牛(吉雄永章)
オランダ語通詞。『解体新書』序文を書き「前野良沢と杉田玄白の力作」であると賞揚。
〇平賀源内
解剖図の画家を捜していることを知らされた際、西洋画の弟子である小田野直武を紹介。
〇小田野直武
秋田藩角館の藩士で画家。藩主ともに平賀源内の西洋画の弟子。
紹介から『解体新書』の開版まで半年という短期間に仕事を成し遂げる。
〇その他
石川玄常・烏山松圓・桐山正哲・嶺春泰
解体新書が完成する
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完成が近づいてくると、主流である東洋医学の漢方医たちからの批判がきて翻訳への禁止や、発刊したものの禁書にならないようにと、図を中心とした抜出の「解体約図」を刊行します。これが心配をつくがえすほどの大好評でした。しかしこの絵は浮世絵師が描いたもので満足できるものではありません。そこへ翻訳の様子を見に来て長崎で西洋画を習得していた平賀源内が、西洋画の弟子である小田野直武を紹介します。そしてあの素晴らしい精密な解剖図ができたのでした。
前野良沢との決別
『解体新書』の翻訳のほとんどは、オランダ語を長崎で少し勉強していた前野良沢でした。前野良沢がいなければ完成することはなかったでしょう。ところが、発刊間近になってから前野良沢からストップがかかったのですよ。
何度も何度も推敲したものの「人の命にかかわるものだから完全でないものを世に出すわけにはいかない」ということが前野良沢の意見でした。杉田玄白は「完全でなくても、この本が出ることで間違った知識で亡くなる人も減るはず」という、どちらも医者として正しい意見でしたので折れることはありません。
当時の平均寿命は50歳くらいで、杉田玄白は40前後の歳で病弱だったこともあり「のんびりしていたら、草葉の陰から完成をみることになる」という焦りもあったことから(ついた仇名は「草葉の陰」)一刻も早く出版したかったこともありました。
とうとう前野良沢は「自分の名前を載せない」ということで決着がつきます。しかし吉雄耕牛の序文によって名前が書かれたことから前野良沢は主人である藩主からほめられ「蘭学の化物」と言われ「蘭化」という号を名乗ることになりました。この後も前野良沢はオランダ語の執筆を続けますが「完全ではないものは世に出さない」というポリシーを曲げることなく出版をすることはなかったのですよ。
決別はしたものの杉田玄白は生涯前野良沢に対しての感謝は忘れることはなかったといいます。杉田玄白は『解体新書』が問題になった時には全責任を自分ひとりで取る覚悟で、各巻の巻頭に「杉田玄白翼 訳」と載せました。決して名誉欲とかではなかったのですね。
解体新書が残したもの
この本は医学書ではありますが、この翻訳をすることから辞書ができ、医学だけではなく西洋文化を知ることができるようになりました。それによって幕末偉人たちは外国の文化や科学を吸収していき(偉人達の多くが学んだ大阪の「適塾」には『解体新書』と辞書があり、生徒達はこぞって1冊しかない辞書を争うようにして写したという話があります)維新という形になっていったのですね。明治政府も、日本の近代化の元となった功績を認めて、前野良沢と杉田玄白に正四位を追贈しているのですよ。
正しい知識で人の命を救いたいという一心で始めた一石が、時代を超えて国をも変えてしまったという不思議な本だったのですね。
意外と長生きした杉田玄白
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「病弱で、高齢だからいつ死ぬかわからない」と言っていた杉田玄白ですが、実は85歳まで長生きします。現代でもなかなかの高齢まで生きた秘訣というのはなんだったのでしょうか?
長生きの秘訣は「養生七不可」
杉田玄白は古希(70歳)を迎える時に「養生七不可」という言葉を残しました。
1.過ぎてしまった昨日のことを、後悔して悩んではいけません
2.明日のことを、心配してはいけません
3.暴飲暴食をしてはいけません
4.新鮮でないものや、変なものを食べてはいけません
5.なんでもない時は、薬を飲んではいけません
6.元気だからといって、無理な性行為をしてはいけません
7.適度な運動をこころがけて、だらだら過ごしてはいけません
なんだか当たり前のことのようですが、つまらないことで悩むなとか、つい薬を飲んでしまうとか、適度な運動ということなどは少々耳が痛いような気がしますよね。これのおかげか、杉田玄白は70歳過ぎてから熱病(インフルエンザ?)で一時は危篤になりましたが元気になっています。適度な運動というのは晩年まで往診に出かけて歩いていたからではないかといわれてますよ。
西洋医学に金字塔をたてた杉田玄白ですが、元々が漢方医だったためか「自然治癒力」というのを大切にしていたといわれていますね。技術は西洋医学・予防や生活習慣や医食同源とかは東洋医学という実践的なお医者さんだったのでしょう。亡くなる寸前にも「医事は自然に如かず(及ばない)」という言葉を残しています。