晩年の杉田玄白
安永5年(1776)に藩の中屋敷を出て、近所に住む旗本の竹本藤兵衛の敷地内に土地を借りて開業します。その時に私塾の「天真楼」も開設しました。患者も多く年1000人もいたといわれていますよ。特に外科に優れていたと伝わっていますね。文化2年(1805)には、11代将軍の徳川家斉に拝謁し、良薬を献上していますよ。子だくさんでオットセイ将軍(精力剤をオットセイの陰茎の粉末を自ら作って飲んでいたということからついた仇名)ともいわれる薬マニアだったので喜んだことでしょうね。
80も近づいて来た時に、蘭学の草創期のことが間違って伝わったりすることを懸念して『蘭学事始』を執筆し始めます。82歳で書き終えて、弟子の大槻玄沢に校訂させて、83歳の文化12年(1815)に完成。その2年後に死去しました。
蘭学事始とは
内容は戦国時代の西洋との接触からはじまって『解体新書』の苦労などが書かれていますよ。前野良沢の業績をはじめ平賀源内や桂川甫周などの蘭学グループを中心とした蘭学者たちのことも書かれていて一級史料といわれていますね。
この『蘭学事始』は原稿本は自分が持ち、写本は大槻玄沢へと2冊しか残していませんでした。そのため杉田家の原稿本は安政2年(1855)の安政の大地震で失われてしまいます。大槻家の写本もいつの時期かに行方不明となってしまいました。
それが幕末に「神田孝平」が湯島の露店で偶然に大槻家の写本を見つけて、明治2年(1869)玄白の曽孫である「杉田廉卿」に校正をしてもらい、「福沢諭吉」が中心となって『蘭学事始』(上下2巻)の題名で刊行したという経緯があるのですよ。福沢諭吉は再版の時の序文に「草創期の苦労をおもうと涙がとまらなかった」と書いています。
杉田玄白という人
杉田玄白という人は明るく友人も多かったといいます。その中でも平賀源内を忘れることはできません。若い頃から親交があり『解体新書』の時も協力してくれた平賀源内が獄死した時のショックはいかばかりかと思いますね。杉田玄白は平賀源内の墓碑を作るのに尽力して碑文に「嗟 非常ノ人、非常ノ事ヲ好ミ、行ヒ是レ非常、何ゾ非常ニ死スルヤ」と刻んでいます。平賀源内の才能を一番理解して一番愛していたのは杉田玄白だったのかもしれません。