イタリアヨーロッパの歴史

ヴェネチアを離れて15000km~冒険家「マルコ・ポーロ」の生涯とは?わかりやすく解説

運命の出会い:従軍と『東方見聞録』

マルコがイタリアに帰国した頃、マルコの故郷であるヴェネチアと、イタリア半島北部にあるジェノバ(ジェノバ共和国)は敵対関係にありました。

両国の対立はやがて戦争へと発展。1298年、マルコは兵士として志願します。

しかしマルコは戦地で運悪く敵につかまってしまい、捕虜として収監されてしまうのです。

このとき、一緒に収監されていたのが、イタリア人作家のルスティケッロ・ダ・ピサでした。

数か月の投獄中、マルコはピサに、中国へ旅した時の話を聞かせたといわれています。その話があまりに面白かったので、ピサはマルコの話を書き留めずにいられませんでした。

そして、この時のピサのメモが、のちに『東方見聞録』 として世に知られることとなるのです。

刊行された『東方見聞録』 には、若干(部分的にはかなり)、ピサの創作や演出、想像が盛り込まれているそうですが、とにかく本は大人気に。ヨーロッパの人々が東方のことを詳しく知るきっかけにもなり、やがて、コロンブスやバスコ・ダ・ガマなど大航海時代を牽引する冒険家たちにも大きな影響を与えることになるのです。

晩年はヴェネチアで家族とともに

捕虜として収監された翌年の1299年、マルコはなんとか釈放され、ヴェネチアに戻ります。

父や兄弟たちは、東方から持ち帰った財宝をもとに莫大な財産を得ており、商売を続けていました。

戻ってすぐ、マルコも商売に加わります。

マルコたちは手広く商売を続けていましたが、マルコ自身はヴェネチアを離れることはなく、遠方の商売は人に任せて、自分は近隣都市をまわるだけとなっていたようです。

1300年、マルコは商人の娘と結婚。この時すでにマルコは46歳になっていました。

やがて3人の娘を授かり、商売を続けながら平穏な日常を過ごしたと考えられています。

それから20年余りの時が経過。1323年、マルコは病にかかり、69歳でこの世を去ります。

マルコポーロは日本に来たことがあるの?

マルコ・ポーロといえば「黄金の国ジパング」として日本のことをヨーロッパに紹介した人物としても知られています。

ただ、自分自身が日本に渡ってきたわけではなく、中国にいたころに人から聞いた話などをもとに、日本のことを語ったのだそうです。

『東方見聞録』には、日本(ジパング)とは、中国大陸の東の海に浮かぶ独立した島で、宮殿や民家は黄金でできていて莫大な金を持っている国、などと記されています。

これは平泉の金色堂を見たのではないか、とか、光り輝く瓦屋根が黄金に見えたのではないか、など、様々な説がありますが、だいぶ誇張して語られている可能性も否めません。

そもそも「マルコポーロは中国にすら行ってないのでは?」との説もあるのです。

マルコによれば、自分はフビライのもとで17年、周辺の国々を巡っていたと語られていますが、中国(元)側にはマルコの記録は皆無。フビライの傍で働いていたなら、名前のひとつも残っていそうなものですが、まったく見当たらないため、本当は中国にも行ってなくて、誰かから聞いた話を語っただけなのでは?との疑惑も浮上。無理もありません。

ただ、現代の研究では概ね、マルコは中国に滞在していたことは間違いないだろう、と考えられています。

当時の元は絶頂期。フビライは大皇帝です。そんな元にとって、マルコは便利な情報屋ではありましたが、正式な国史でも使者でもありませんでしたので、正式な記録に残すまでもない(むしろ、そんな連中の手を借りて国を大きくしたなどと思われたくない)と考えたのかもしれません。

東洋と西洋の架け橋:時代を先取りした偉人・マルコポーロ

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「なあんだ、実際には日本には来てないのか」「見てきたようなことを」と、現代人なら思ってしまいがちですが、そこは今から700年以上も前のこと。飛行機も動力を持つ船体もない時代に、海を渡ってはるか遠い国の様子など、ちょいちょい見に行くことはできなかったはずです。「行ったことがある人から聞いた話」ですら、貴重な情報だったはず。それを持ち帰ってヨーロッパに広めたマルコポーロ、壮大な物語は未来まで続きます。彼が偉大な人物であることには違いないと強く感じました。

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