神戸線沿線の宅地開発
こうして阪神に速度の面ではリードする結果となりましたが、鉄道会社において一番肝心な乗客の人数はというと阪神にボロ負け。
その理由はなんといっても走行している区域が発展していないことにありました。
そこで一三は箕面有馬電気軌道の時と同じ経営方針を打ち立てていき、乗客を作っていく方面で沿線開発を行っていきます。
沿線の六甲山付近を切り開いて宅地開発を行っていき、池田と同じように一軒家の分譲を開始。そして沿線に関西の名門私立大学の一角である関西学院大学といった学校を誘致していき、梅田方面とは逆の乗客を確保。
そしてこの沿線開発によって六甲山一帯は芦屋を代表として高級住宅街が形成されていくようになり、阪神間モダニズムと呼ばれる独自の文化も構築していきました。
阪急百貨店の開設
1920年。小林一三は始発点である梅田駅にビルを創設し日本初のターミナルデパートを開業しました。一階には東京から誘致した白木屋が、二階には阪急直轄の食堂が入り、1929年には阪急マーケットが入ったことによって阪急百貨店が開業しました。
これまで百貨店といえばルーツは呉服屋が元でした。そのため商業のノウハウがわかっていない鉄道会社が百貨店を運営するのは大変なチャレンジであったのです。
しかし、小林一三は「素人だからこそ玄人では気づかない商機がわかる」、「便利な場所なら、暖簾がなくとも乗客は集まるはず」などと言って事業を推し進め、世界恐慌のさなかであっても庶民目線の経営を行ったことが功を奏して多くの客を集めることに成功しました。
これを受けて一三は不景気であっても阪急の経営を拡大していくようになり、1929年には六甲山ホテルの開業、1932年には東京に東京宝塚劇場、1937年には東宝映画の設立(のちに東京宝塚劇場と合併)など一気に事業を拡大。今も続く阪急ブランドを確立させたのでした。
東急の経営参加
関西における阪急のブランドを確立させた一三は阪急の経営から一線を退くと東京急行電鉄(東急)の前身である田園都市株式会社に経営参加。田園都市自体は渋沢栄一によって1918年に開業していましたが、一三は名前を出さず、報酬も受け取らず、日曜日のみ、という約束で引き受け、玉川、調布方面の宅地開発と鉄道事業を進めていきました。ちなみに、東急はその後五島慶太によって一三と同じような経営方針を行なっていき、東急の沿線に娯楽施設やデパートを立てていったのでした。
こちらの記事もおすすめ
小林一三と野球
一三は野球が大好きであったと知られており、阪急では度々プロ野球球団を創設していました。一三は日本で3番目のプロ野球球団である宝塚運動協会を設立しました。これは失敗に終わり1929年に解散することになるのですが、1934年に大日本東京野球倶楽部(現読売ジャイアンツ)が、翌1935年に大阪タイガース(現阪神タイガース)が、1936年に名古屋軍(現中日ドラゴンズ)が結成されるなど企業による球団設立が相次ぐとその波に乗るために1936年に大阪阪急野球協会(現オリックスバファローズ)を設立。この球団はのちに阪急ブレーブスとなり、パリーグの一球団として活躍していくことになります。
小林一三はこの阪急ブレーブスには特に強い思いがあり、「私が死んでも宝塚歌劇団とブレーブスだけは売るな」と言い残したと言われている。(しかし、阪急ブレーブスは1989年にオリックスに売却)
日本の中枢に
1934年に阪急の社長を辞任。阪急の経営からは手を引き、その後は実業家として各地の会社の社長を歴任していくことになります。
東京電燈の社長を務めた時には東京の電力が過剰なり、経営が逼迫していた経営を見事に立て直し、松竹の創業した大谷竹次郎が東宝映画の社長になったのを引き換えに松竹の社外取締役に就任しました。
実業家として活躍していく中で一三はこの時首相を務めるほどの重鎮となっていた近衛文麿に接近。その甲斐あってか1940年には第二次近衛内閣の商工大臣に就任。第二次近衛内閣はわずか一年で倒閣する事になるのですが、一三は徐々に統制経済に向かっている日本の状況に嫌気がさしており、特に統制経済の論者であった岸信介と度々対立。1939年から1941年にかけて起こった企画院事件では一三は岸信介のことをアカの手先(共産主義者)として弾劾し、岸信介はその反撃として小林が軍事機密を漏洩したとして軍から圧力を受けるようになります。これによって政府にいられなくなった一三は政治家を辞職。太平洋戦争の時には身を隠す事になりました.
戦後の一三
1945年に終戦を迎えると直後に組閣された幣原内閣に入閣する事になりました。一三は国務大臣として日本の復興を一任されるのですが、第二次近衛内閣で商工大臣を務めていたことがたたり、GHQから公職追放される事になります。1951年に公職追放が解除されると政治家になることは二度となく、東宝の社長を務め、1957年1月25日に大阪府池田市の自宅で死去しました。
一三は最後の最後まで鉄道は民間の手に渡るべきだと主張しており、当時放漫経営で問題となっていた国鉄に対しては「民営の手に渡れば開発事業も可能となり、資金調達も自由に行え、創意と責任のもと積極的な経営ができると民営化すべきとの発言を行うなど生涯にわたって鉄道の経営のことを考えていました。
こちらの記事もおすすめ
今さら聞けないGHQの占領政策。占領政策が日本に与えた影響とは – Rinto~凛と~