日本の歴史飛鳥時代

蘇我氏を打倒し大化の改新を主導した「中大兄皇子」を元予備校講師がわかりやすく解説

斉明天皇の即位と斉明朝の政治

乙巳の変で退位していた皇極天皇は、孝徳天皇の死去により再び天皇として即位しました。一度即位した天皇が、再度即位することを重祚といいます。重祚後は、斉明天皇とよばれますね。

政治の実権は引き続き皇太子である中大兄皇子が握ります。中大兄皇子から見れば、斉明天皇は自分の母親にあたりますよ。

当時の記録や後世の研究から、斉明天皇時代に大規模な土木事業が行われたことがわかっています。また、阿倍比羅夫を東北地方の日本海側に派遣し、北方の蝦夷を攻撃させました。

その一方、斉明天皇や中大兄皇子に不満を抱いていた孝徳天皇の子の有間皇子を謀反の罪によって絞首刑にするなど、反対勢力に対しては厳しい対応を取ります。

朝鮮半島情勢の激変と白村江の戦い

このころ、朝鮮半島は三つの国に分かれて争っていました。北方の高句麗、南東部の新羅、南西部の百済の三国です。日本は百済と友好関係にあり、新羅とはたびたび対立してきました。

660年、新羅は唐王朝と手をくみ百済を攻め滅ぼします。百済の人々は、日本に人質として送られていた百済の王族を担いで百済復興運動を行いました。このとき、百済復興軍を率いる鬼室福信は倭国に対し、軍事援助を求めます。

斉明天皇は自ら九州に赴き、百済復興軍を積極的に支援することにしました。661年、斉明天皇は九州で病のため亡くなります

中大兄皇子は皇太子のままで政治を行いました。662年、中大兄皇子は阿倍比羅夫を大将とする百済救援軍を派遣。唐・新羅連合軍と白村江で戦いました。結果は大敗。百済は完全に滅亡し、倭国の軍はほうほうの体で日本に逃げ帰ります。

国防体制の強化

白村江の戦いの後、中大兄皇子は唐や新羅の連合軍が日本に攻めてくるのではないかと警戒しました。そのため、西日本各地に防御態勢を敷きます。

まず、九州北部には防人を置き、朝鮮半島からの攻撃に備えました。次に、九州北部の重要施設である大宰府を防備するため、太宰府北方に水城をつくります。同時に、太宰府の背後に朝鮮式山城である大野城を築城しました。

それだけではなく、瀬戸内海や近畿地方にも朝鮮式山城を築城するなど、唐や新羅の軍に対して徹底的に備えます。当時、唐は積極的に領土を拡大していました。白村江の戦いの余勢をかって日本に攻め込んでくる可能性は十分あったというべきでしょう。

天智天皇としての政治

image by PIXTA / 15239113

661年から668年にかけて、中大兄皇子は皇太子のまま政治を行いました。668年、中大兄皇子はようやく天皇として即位。以後、天智天皇とよびます。天智天皇は都を近江大津宮に移すとともに、庚午年籍を作成。天皇中心の国づくりを進めました。天智天皇は自分の跡継ぎを息子の大友皇子と定めます。これを知った弟の大海人皇子は出家して都を去りました。

近江大津宮遷都

白村江の戦いの後、天智天皇は唐との関係改善を模索しました。665年、守大石らを遣唐使として派遣することで、唐との通交を回復します。

667年、天智天皇は都を琵琶湖沿岸の近江大津宮に移しました。遷都の詳しい理由は不明ですが、白村江の戦い後の動揺を抑えるためや、国防上の理由などが考えられます。

遷都後、天智天皇は日本最古の戸籍となる庚午年籍を作成しました。戸籍の作成は改新の詔にも示されていたものですね。

また、天智天皇は中臣鎌足に命じて日本最初の律令法典となる近江令を制定させました。残念ながら、近江令の原本が現存しないため、実在が確かめられていません。

天智天皇は、遷都や戸籍の作成、近江令の制定などにより天皇中心の国を作るという改新の詔の目標を、着実に実行していったのです。

天智天皇の死

天智天皇は即位後、弟の大海人皇子を皇太弟にたてました。その一方、自分の息子である大友皇子は太政大臣に任じて朝廷を統率させようとします。この様子を見た大海人皇子は、兄の本音が息子である大友皇子に天皇位を継がせることだと判断。皇太弟の地位を辞します。かわって、大友皇子が皇太子にたてられました。

671年、天智天皇は病に倒れます。天智天皇は大海人皇子を呼び寄せ、後を託そうとしました。しかし、大海人皇子は天智天皇が息子に天皇位を継がせたいという気持ちが強いのを見切り、天智天皇の要請を断ります。

それだけではなく、髪をそって出家し吉野に隠棲しました。671年12月3日、天智天皇が死去します。享年46歳でした。

次のページを読む
1 2 3
Share: