アメリカの歴史独立後

大西洋単独無着陸飛行を成功させた「リンドバーグ」の生涯を元予備校講師がわかりやすく解説

飛行機の発達

飛行機は20世紀になって新しく登場した最先端の乗り物です。1903年、アメリカのライト兄弟が「ライトフライヤー号」で初の飛行を成し遂げたことにより、飛行機開発の歴史が幕を開けました。

1914年に始まった第一次世界大戦は飛行機の性能を飛躍的に向上させます。はじめ、飛行機は偵察用として用いられました。導入当初、ほとんど武装がなかったため、上空で飛行機同士が遭遇すると互いにピストルで撃ち合います。

そのうち、飛行機に機関銃が装備され、爆弾が搭載されるようになりました。飛行機は航続距離やエンジンの馬力、積載重量が大きくなります。

第一次世界大戦後、アメリカ政府は作りすぎた軍用機を格安で販売しました。飛行機を手に入れたいと思っていた人たちにとって大きなチャンスが到来します。

その後、アメリカの航空産業は徐々に成長。リンドバーグのような郵便飛行機パイロットも増えていきました。

リンドバーグが狙ったオルティーグ賞

1919年、ニューヨークのホテル経営者だったレイモンド=オルティーグはニューヨークからパリまで、大西洋を無着陸で横断する飛行を達成した人に25,000ドルの賞金を与えるとしてオルティーグ賞を創設しました。

当初、1919年から5年限りの賞でしたが、挑戦者が現れなかったため、1924年から5年間延長されます。

1926年にフランスのルネ=フォークが100,000ドルもの大金を投じた飛行機で挑みますが、離陸に失敗。1927年4月にはアメリカのリチャード=バードが挑戦するも、失敗。5月8日、フランスから飛び立ったシャルル=ナンジェッセらの飛行機は途中で消息を絶ちました。

当時の名だたる飛行家が挑戦しては失敗を繰り返すオルティーグ賞に、彼らよりもはるかに小型の飛行機で挑もうとするリンドバーグの挑戦はとても無謀で、最悪の結果をもたらすだろうと思われたかもしれません。

大西洋単独無着陸飛行の成功

1927年5月20日、リンドバーグは愛機「Spirit of St. Louis」号に乗ってニューヨークのロングアイランドにある飛行場から飛び立ちました。

リンドバーグが乗った「Spirit of St. Louis」は飛行機購入などを援助してくれたセントルイスの実業家たちへの感謝と尊敬を表してつけられた名で、機体の横腹に大きく書かれます。

ニューヨークを飛び立った「Spirit of St. Louis」は北アメリカ大陸の大西洋岸を北上しました。途中、リンドバーグは気象予報にはなかった暴風雨に遭遇し、進路を変更。かろうじてやり過ごすことに成功します。

ニューファンドランド諸島を過ぎると、島影のない大西洋に出ました。出発してから十時間以上経過すると、リンドバーグは激しい睡魔に襲われます。

なんとか、眠気に耐えて大西洋上をひたすら東へと向かいました。フランス時間の5月21日22時21、リンドバーグはパリのル=ブルジェ飛行場に着陸します。フランスに到着したリンドバーグは最大限の歓迎を受けました。この時が、リンドバーグの幸福の絶頂だったかもしれません。

飛行成功後のリンドバーグ

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無名の郵便飛行機乗りだったリンドバーグは、大西洋単独無着陸横断飛行を達成しオルティーグ賞を受賞したことで、一躍時の人となり、メディアは彼の動向に注目しました。しかし、その後の彼の人生は順風満帆とはいきませんでした。1929年には長男が誘拐され、その後遺体で発見されます。また、第二次世界大戦ではルーズヴェルト政権と信頼関係を築けなかったことで、間接的な支援しかできませんでした。

リンドバーグ愛児誘拐事件

1929年、リンドバーグは駐メキシコ大使を務めたドワイト=モローの二女のアンと結婚します。彼女と間には6人の子供をもうけました。1930年、リンドバーグ夫妻の最初の子であるチャールズ=オーガスタス=ジュニアを授かります。

1932年3月1日、まだ2歳になる前のジュニアが自宅から忽然と姿を消しました。ジュニアを誘拐したものは、犯行現場に身代金50,000ドルを要求する手紙を残します。

リンドバーグや捜査機関は犯人の情報を求め、身代金の交渉を実行。しかし、交渉虚しく、ジュニアは5月12日に遺体で発見されました。

事件から3年後、ドイツ系移民のハウプトマンが誘拐犯として逮捕されます。ハウプトマンは逮捕後、一貫して無実を主張。しかし、裁判所はハウプトマンの家に身代金の金券があったことから、ハウプトマンに死刑判決を下しました。

1936年、ハウプトマンの死刑が執行されます。この事件は、当時様々な憶測を呼びました。憶測の中には、リンドバーグが犯人であるという自作自演説もあったくらいです。この事件の真相はいまだに闇の中ですね。

ルーズヴェルト政権との軋轢

第一次世界大戦と第二次世界大戦の間、いわゆる戦間期にリンドバーグはドイツに旅行していました。1938年のドイツ行きでは、ドイツ空軍総司令官のゲーリングから勲章を授与されます。

ユダヤ人に激しい迫害を加えていたドイツのヒトラー政権から勲章を授与されたことについて、リンドバーグは世論の批判を浴びました。これに対し、リンドバーグは過剰な非難であると反論します。

1941年、リンドバーグはルーズヴェルト政権の政策がイギリスやユダヤ人と共にアメリカを戦争に引き込もうとしている批判し、アメリカ陸軍航空隊での仕事を解任されました。

太平洋戦争がはじまると、リンドバーグは戦争に参加したいと考えアメリカ陸軍航空隊に復帰したいと希望します。しかし、ルーズヴェルト政権はリンドバーグの過去の発言などから彼の復帰希望を却下。リンドバーグは止む無く、民間人としてアメリカの戦争に協力し、民間機のパイロットとして日本軍と戦います。

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