京都に帰還
その後、還暦過ぎとなった親鸞はお弟子や妻とともに京都に帰還。京都に帰った理由は様々ありますが、この時の還暦はもう死ぬ寸前とも言えるような年齢であり、馴染みの深い京都にて残りの生涯を過ごしたいと思ったのでしょう。
京都に帰った親鸞は京都における布教のかたわらで著作に励み、すでに主著の『教行信証』の加筆修正や、『浄土和讃』『高僧和讃』『浄土文類聚鈔』などの執筆に取り掛かります。
しかし、83歳になると親鸞の自宅が全焼するという被害にあい、さらには東国における布教をしていた長男の善鸞との宗教観での対立などで勘当しなければならないという事件が起きるなど様々な苦難に見舞われることになりました。
しかし、それでも親鸞は自分の教えをできる限りの人々に伝えるようにするために執筆や布教に励み1262年に90歳で入滅しました。
親鸞の死後と浄土真宗の成立
親鸞が亡くなると、お弟子たちが各地に渡り布教を継続。そしてその教えが広まっていき最終的には浄土真宗という一つの大きな宗派となっていきました。
浄土真宗は数々の宗派に分かれていきましたが、その中でも特に本願寺派の勢力が鎌倉時代、室町時代に入っていくと勢力を急上昇させ、北陸、近畿地方などで一大勢力圏を築き上げ一向一揆という形で織田信長をはじめとした戦国大名を脅かすようになりました。
本願寺派の勢力は戦国時代を経て江戸時代に入ると落ち着くのですが、それでも親鸞の教えを発展させた浄土真宗は西本願寺と東本願寺を中心として根強く浸透していき、1876年には明治天皇によって見真大師の諡号を追贈されました。
親鸞の教えは今も日本の未来を照らしているのです。
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