小説・童話あらすじ

【解説】芥川龍之介の名作『羅生門』主人公の心情理解が解釈のポイント!

老婆が語る「善悪」

『羅生門』には考えさせられるような言葉がいくつも出てきます。その最たるものが、老婆による「善悪」についての語り。これは、彼女が自らの身を守るために必死にした言い訳ではあるのでしょうが、果たして「善」と「悪」とはなんなのか考えさせられるものとなっています。「せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ」。死体となった女も生前は生きるために人を騙して生計を立てていた。死体から髪の毛を抜くという自分の行為も生きるためにやっているので悪いことではない、と老婆は主張しています。下人も実際これを受け入れて、生きるために盗人になってしまいました。物事の「善し悪し」は、実はとてもあいまいなものなのではないでしょうか。

移り変わる下人の感情に注目!

下人は職を失った当初(物語の冒頭)、生きるために手段は選んでいられないことを分かりながらも、「盗人になる勇気」が出ずに途方にくれていました。まだ確立していないこの勇気は「悪の勇気」でしょう。そして髪の毛を抜くというある種の盗みをはたらく「老婆を捕えた時の勇気」。こちらは老婆に対する憎悪とも表現されますが、正義感=「善の勇気」であると言えるのではないでしょうか。盗人か飢え死になら飢え死にを選ぶ。「盗人になる勇気」はこの段階では心から消えてしまっています。老婆を捕えたことで一旦満足を得た下人。老婆が「かつらを作っていた」と平凡な答えを返すと、落ち着いていた下人の憎悪の心(善の勇気)が湧きあがります。

そんな折に語られる老婆の「善悪論」。これを聞いた下人の心には、物語の当初欠けていた勇気が湧いてきます。そう、「盗人になる勇気」です。結果として、下人は老婆の服をはいで盗人となりました。物語を通して思考に一貫性がない、と思ってしまうかもしれませんが、人間の思考というのは移り変わりやすいものではないでしょうか。元ネタの『今昔物語集』のお話では盗人は最初から盗人でしたが、『羅生門』では一般人が理由を持って盗人になったことがわかるのもこの小説の面白いところだと思っています。

人間は善にも悪にも簡単になれてしまう

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悪を許せない気持ちを抱いていた下人は、ほとんど一瞬のうちに盗人となってしまいました。人の気持ちは移ろいやすいもの。きっかけがあれば、善にも悪にもなれてしまうのですね。しかもその善悪の定義はあいまいです。短編でありながらも、人生について考えさせられる『羅生門』。名作と言われ、教科書定番作品であるというのも納得できる作品です。

本文中の引用は青空文庫(下記リンク)から行いました。

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