日本の歴史江戸時代

元禄時代に生きた旅人兼俳諧師「松尾芭蕉」と『奥の細道』を元予備校講師がわかりやすく解説

松尾芭蕉の旅と最後の句

伊賀国に生まれ、江戸で俳諧師として活躍した松尾芭蕉は全国各地を旅して俳句を作ります。1864年8月、芭蕉は伊賀・大和・吉野・山城・美濃・尾張の各国を回りました。現在でいうと三重県、奈良県、京都府、岐阜県、愛知県などをめぐります。

この旅を記したのが『野ざらし紀行』でした。旅の途中で故郷の伊賀に立ち寄り、前年に死去した母の墓参りをしています。

江戸にもどった芭蕉は「古池や 蛙飛び込む 水の音」という有名な一句を作りました。蛙といえば「鳴く」ことを連想する人が多い中、あえて「飛ぶ」ことに注目し、飛ぶ姿と蛙が飛び込むことで発する「ぼちゃん」という音に着目したこの句は蕉風俳諧を象徴する一句として有名になります。

亡くなる直前には「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」という一句を詠みました。往年、全国各地を旅した芭蕉は病の床の中でも旅をしたいと思ったのでしょうね。

『奥の細道』

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松尾芭蕉の代表作といえば俳諧紀行文『奥の細道』でしょう。「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」ではじまる『奥の細道』は東北地方や北陸地方を旅した芭蕉の旅行記。『奥の細道』の中には名場面がたくさんありますが、今回は旅の始まり、松島、平泉、立石寺、新庄、象潟、出雲崎を取り上げます。

『奥の細道』とは

『奥の細道』とは、1702年に刊行された松尾芭蕉の俳諧紀行文です。1689年、弟子の一人である河合曾良を伴って東北地方や北陸地方の各地を巡りました。旅に要した期間はおよそ5か月。数々の古典を引用しながら、各地の情景を題材として歌を詠みます。

1689年5月、芭蕉は江戸深川の芭蕉庵を出発。栃木県の日光に向かいました。日光では家康をまつった日光東照宮を訪れ「あらたふと 青葉若葉の 日の光」と日光を称えます。

芭蕉はさらに北へ向かい白河の関を越えて東北に入りました。東北では松島、平泉、立石寺、象潟など数多くの名所旧跡を訪れます。また、最上川の急流下りも体験したようですね。

その後、日本海側を南下した芭蕉は新潟・富山・金沢・福井と移動。福井から内陸に入り、岐阜県の大垣で『奥の細道』は終わっています。車のない時代、長距離を移動するは大変だったはず。40代の芭蕉にとっても体力勝負だったに違いありません。

 

旅の始まりから松島まで

芭蕉は旅に向かう心境について冒頭分で述べています。月日は永遠の旅人で、人生も旅であるというのは芭蕉の人生観が現れているように思えますね。旅に出たいという気持ちを抑えきれなくなった芭蕉は、旧暦3月に白河の関の北にある「みちのく」へと旅立ちました。

歌枕の地である白河の関は東北地方への入り口。ここを越えると、目指す「みちのく」です。旧暦5月4日、白河の関に続いて歌枕で有名な多賀城を訪れました。多賀城は古代日本の朝廷が東北制圧のために置いた城で、しばしば、歌にも登場します。

旧暦5月9日、松尾芭蕉は松島に到着しました。現代でも風光明媚な地として知られる松島を見て、芭蕉は感動のあまり句を詠むことができません。「松島や ああ松島や 松島や」というのは後世付け足されたもので、芭蕉自身が読んだものではないようです。

平泉から立石寺経由、新庄まで

旧暦5月13日、岩手県南部の平泉に到着しました。平泉は平安時代末期に奥州藤原氏が本拠地を置いた場所です。芭蕉が訪れたころ、平泉には奥州藤原氏の業績をしのぶものがほとんど残されていませでした。

芭蕉は「三代の栄耀一睡のうちにして」と表現し、過去の栄華が残されていないことを記します。そして、杜甫の春望を念頭に「夏草や 兵どもが 夢のあと」、「五月雨の 降り残してや 光堂」の句を詠みました。

旧暦5月27日、芭蕉は山形領の立石寺に到着。立石寺を参詣しつつ、「閑さや 岩にしみ入る 蝉の聲」と詠みます。夏の風景が一瞬にして浮かぶ句ですね。

旧暦5月29日には新庄で最上川を前に「五月雨を あつめて早し 最上川」の句を詠みました。最上川は急流としても知られています。五月雨のころなら、水量が多く流れもさぞかし急だったでしょう。

このあたりは、中学校の古典の題材としてもよく取り上げられるのでご存知の方も多いと思います。

日本海沿岸の旅行、象潟、出雲崎

最上川を下って日本海に達した芭蕉は、北上して秋田県の象潟にはいります。目的は松島と並ぶ名所として知られた象潟の風景を見ることだったでしょう。現在の象潟は1804年の象潟地震での隆起やその後の干拓事業のため、陸地化しています。

芭蕉は当時の象潟と松島を比較し、「松島は笑ふが如く、象潟は憾むが如し」と評しました。そして「象潟や 雨に西施が ねぶの花」と詠みます。古代中国の絶世の美女として知られた西施を象潟の風景に重ねました。

旧暦7月4日、芭蕉は越後国出雲崎に到達します。出雲崎から対岸の佐渡を見て「荒海や 佐渡によこたふ 天の河」と詠みました。日本海の荒波と佐渡島、その上に広がる天の河の様子が目に見えるようです。

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