パンチェン・ラマとダライ・ラマ
パンチェン・ラマはダライ・ラマに次ぐ権威を持ち、阿弥陀如来の化身ラマとされました。ダライ・ラマと同じく、転生によって後継者が定められます。パンチェン・ラマはゲルク派内ではダライ・ラマに匹敵する宗教的権威を持ちました。
20世紀初頭、清国軍がチベットに攻め込むとダライ・ラマ13世は外国に亡命します。しかし、パンチェン・ラマ9世は清国軍と協力して秩序を回復することを選択しました。
辛亥革命により清国軍が撤退するとダライ・ラマ13世がラサに帰還。パンチェン・ラマ9世の立場は危うくなり中国の勢力圏に脱出します。パンチェン・ラマ9世の死後、次の化身ラマ探しは長期化しました。
中華人民共和国領の青海省にいたチューキ・ギャルツェンは1951年、中国人民解放軍とともにタシルンボ寺に入りパンチェン・ラマ10世となります。
パンチェン・ラマ10世の死後、ダライ・ラマ14世と中国政府が別々の人物をパンチェン・ラマとして認定したため、パンチェン・ラマ11世は二人という異常事態となりました。
チベット独立問題とダライ・ラマ14世
現在のダライ・ラマであるダライ・ラマ14世はチベットではなくインドにいます。なぜ、ダライ・ラマは国外に脱出しなければならなかったのでしょう。その背景には中国政府によるチベット進駐の問題がありました。チベット問題やダライ・ラマ14世を支援するインドと中国の関係悪化、漢民族のチベット進出の現状などについてまとめます。
ダライ・ラマ14世とは
1933年、ダライ・ラマ13世が死去すると化身ラマ探しが始まりました。1935年、青海省のアムド地方に一人の少年が生まれます。彼こそが後のダライ・ラマ14世でした。
ラサからやってきたダライ・ラマ捜索隊は後にダライ・ラマとなる少年の家を訪れます。少年は身分を隠していたのに僧侶の一人の身元を見破りました。さらに、本当のダライ・ラマ13世の遺品と精巧に作られた贋物とを区別するテストもクリアします。
そのほか、いくつかのテストを経て少年はダライ・ラマの転生である化身ラマだと断定されました。
1940年、少年はチベット仏教を代表するダライ・ラマ14世として即位します。1949年、中国本土では毛沢東と蒋介石の内戦が終結。勝利した毛沢東は中華人民共和国の建国を宣言しました。
その二年後、人民解放軍はチベットを制圧し併合します。ダライ・ラマ14世はそれを認めるしかありませんでした。
チベット反乱とダライ・ラマのインド亡命
1951年のチベット併合以来、併合に反発するチベット人たちは各地で中国人民解放軍に対してゲリラ活動を展開します。中国政府はダライ・ラマ14世以下のチベット政府に取締りを命じました。
1959年3月、ラサ駐屯の人民解放軍司令部からダライ・ラマ14世に対して観劇の誘いが届きます。しかし、武装警備隊を同行させないことや劇場に移動する際の公式儀式を行わないことなど不自然なことが多い招待でした。
このことがラサ市民の間に広がると、チベット人たちは人民解放軍がダライ・ラマ14世を拉致するのではないかと恐れます。チベット人たちはダライ・ラマ14世を守るためにラサに集まりました。
3月19日、人民解放軍とチベット人たちは衝突。多くの人間が殺されます。この混乱の中、ダライ・ラマ14世はインドに亡命してチベット独立を宣言しました。
中印関係の悪化と国境紛争
ダライ・ラマ14世の亡命を受け入れたインドのネルー首相はダライ・ラマ14世の支持を表明します。インドがダライ・ラマ14世を支持して中国と対立した背景にはヒマラヤ周辺の国境問題がありました。1957年頃からインドと中国は国境をめぐって対立していたからです。
ダライ・ラマ14世はインドに亡命するとインドのダラムサラに亡命政権を樹立しました。ダラムサラには約6,000人のチベット人が暮らしておりチベット仏教の一大拠点となっています。チベット亡命政府は中国の動きを暴力的だとして抗議しました。
1962年、ダライ・ラマ14世の亡命以来、悪化する一方だった中国とインドが軍事衝突します。戦いの舞台となったのは両国が領有権を主張するカシミール地方と隣接するアクサイチン、ブータン東部などでした。戦いは人民解放軍の圧勝で幕を閉じます。
漢民族によるチベット進出
20世紀に入ると、中国政府は内陸部の開発に力を入れるようになりました。中国政府が掲げる西部大開発の重点施策の一つとして青蔵鉄道の敷設があります。中国西部の青海省西寧とチベット自治区のラサを結ぶ高原鉄道を敷設し、ヒトとモノの移動を活発化させようというものでした。
第一期工事は1984年までに終了。2006年には全線開通にこぎつけます。こうした交通機関の整備などが進むにつれ、漢民族がラサに進出するようになりました。
また、中国政府がチベット人固有の遊牧を「野蛮」であるとして禁止するなどチベットの中国化は確実に進められています。さらに、中国政府は中国に批判的なチベット人に対して容赦ない弾圧を加えました。チベットでは1989年、2008年に大規模な独立運動が起きており、中国政府は神経をとがらせています。