アメリカ軍が上陸を開始
それまでにもアメリカ軍の爆撃機は、連日のように日本軍陣地に対して爆撃を加えていましたが、上陸日前日にあたる2月17日、天候の回復とともに数十隻を超える艦隊から猛烈な艦砲射撃が行われました。
硫黄島唯一の高所だった摺鉢山砲台から反撃が行われますが、かえってその位置を知られてしまい、山頂の1/4が吹き飛ぶほどの熾烈な艦砲射撃と爆撃を受けて沈黙してしまいます。これは本格上陸を前にして、水平砲台を失ったことは大きな痛手となりました。しかし、それ以外は日本軍に大きな被害はなく、日本軍の士気に大きな影響を与えることはありませんでした。
そして2月18日、強力な支援の下に上陸部隊は硫黄島東海岸へ接岸。内陸へと進出を開始しました。しかし日本軍からの反撃はありません。それもそのはず。栗林の命令によって敵が上陸し終わるのを待っていたのです。
そして9千名が上陸するのを見届け、満を持して日本軍の攻撃が開始されました。猛烈な砲火が第4海兵師団の将兵たちを襲い、兵士ばかりでなく上陸用舟艇なども狙われ、戦場は阿鼻叫喚の坩堝と化します。あちこちで戦車やトラックが砲撃のためにひっくり返り、アメリカ軍兵士の死傷者が増えていきました。
当時、戦時特派員だったリチャード・F・ニューカムは当時の様子をこう述べていますね。
上陸後一時間もたたないうちに、沖合いにいる船に負傷者がぞくぞくと運ばれてきたが、昼には血が河になって流れるほどの惨状をみせていた。軍医が輸送船や病院船に待機していた。舷側では、負傷者を収容する作業が続いた。船べりに並んだ水兵は、恐怖をまざまざと顔にうかべて、集まってくるボートに積まれた肉片を見つめていた。
引用元 リチャード・F・ニューカム「硫黄島」より
アメリカ軍は着実に内陸へ前進しつつも、その被害は甚大で損耗は激しくなるばかりでした。いっぽう洞窟陣地に籠って戦う日本軍の攻撃は全く衰えることなく続いていきました。
これまでなら水際で頑張って戦うはずの日本兵が、いっこうにその姿を見せずに攻撃を加えてくるわけで、これまで日本軍と相対した歴戦の海兵隊員たちも、「見えざる敵」の存在に不安を拭うことができませんでした。
摺鉢山の死闘
摺鉢山(すりばちやま)は島の南西端に突き出た火山で、全島を見渡すことができる戦略上の重要拠点でした。日本軍はここに蟻の巣のような地下トンネルを縦横にめぐらし、山全体を要塞化していました。日米の死闘は、この摺鉢山の争奪戦が焦点となったのです。
アメリカ第4海兵師団第28連隊が攻撃を加えますが、日本軍陣地はびくともしません。戦車を投入しても次々に撃破される始末で、被害はどんどん増すばかり。夜になれば必ず日本軍の夜間斬り込み、いわゆる「バンザイアタック」があるものでしたが、それすらも仕掛けてきません。栗林は人的損耗を嫌って無駄な攻撃を控えさせたのでした。
それでも空陸海から猛攻を加えてくるアメリカ軍の攻撃は凄まじいもので、上陸初日だけでも1万発以上の艦砲が摺鉢山に叩き込まれました。さらに火炎放射器の猛威が日本軍を圧迫したのです。トーチカの銃眼一つ一つにホースのように伸びる火炎が直撃し、そこで戦っていた兵士たちを直撃しました。
やがて摺鉢山を守る日本軍は内部へ内部へと押し込まれていき、摺鉢山指揮官の厚地大佐も戦死。2月20日には1,700の守備隊のうち半数を失っていました。さらに翌日には300まで戦力が低下したのです。
日本軍は島に洞窟陣地を構築したものの、最後まで本隊と摺鉢山守備隊との連絡通路は開削できないままになっており、そのため摺鉢山へ増援を送ることさえできませんでした。
2月23日、摺鉢山山頂に星条旗が翻り占領を宣言。しかし、なおも山の洞窟の中に300の日本兵たちが息をひそめていました。彼らは夜半に敵の包囲下を脱出して北の本隊と合流するべく斬り込みますが、そのほとんどが全滅。ようやく合流できたのは25名に過ぎませんでした。
日本軍の奮戦と玉砕
By Life Magazine photographer Mark Kauffman (1922-1994) (Official USMC photograph) – Department of Defense Photo (USMC) 140758, パブリック・ドメイン, Link
摺鉢山が陥落してから3週間にわたって、日本軍はなおも戦い続けました。絶望的な戦況だったとしても一日でも長く敵を日本本土へ近づけさせないために。まさに決死の覚悟だったといえるでしょう。
西戦車隊の奮戦
By http://www.iwo-jima.org/sensi/index.html, パブリック・ドメイン, Link
硫黄島に配備された日本軍唯一の戦車部隊が【戦車第26連隊】でした。それを指揮していたのは西竹一中佐。かつてロサンゼルスで開かれた第10回オリンピックの馬術競技で、愛馬ウラヌスを駆って金メダルを獲得したメダリストだったのです。
西はロス市民から大きな尊敬を受け、「バロン・ニシ」と呼ばれて親しまれたそうで、市長からも名誉市民章を送られたとのこと。そんな西が硫黄島へ派遣され、アメリカ軍と戦っているなど運命の悪戯とでも言うべきでしょうか。
西の連隊は、前進してくるアメリカ軍の阻止に活躍し、倍以上の兵力差にも関わらず奮闘していました。手持ちの戦車を地中に埋めて砲台代わりに使用したりと工夫も多かったようです。そのため敵の戦車を数多く撃破したとも。
また、戦場ではぐれた兵士を自分の洞窟内に入れることを拒絶する隊長が多かった中で、西だけは「一緒に戦おう」と受け入れたという逸話も残っています。そんな彼の人間性を表すエピソードが語り継がれていますね。
逃げ遅れ、撃たれて傷ついたこのアメリカ兵は、西部隊長の前に連れてこられ、俘虜としての訊問が始まった。
若いアメリカ兵の懐ろから出た一通の手紙、それは母親から戦地の彼にあてたもので、「早く帰って来なさい。母はそればかりを待っています」と書かれてあった。
西はこれを見て「どこの国でも人情に変わりはないなあ」といつにない悲しい表情をした。
そして乏しい中から手持ちの薬を与えて手厚く看護してやったが、彼はその翌日、西に感謝しながら最後の息を引き取った。
しかし2月27日から始まったアメリカ第3海兵師団との戦いで熾烈な白兵戦を展開。西の連隊は大打撃を蒙ってしまいます。3月に入ると連隊が保有する戦車も無くなってしまい、あとは肉弾攻撃に頼るほかはなくなりました。
それでも西連隊は頑強に抵抗を続け、敵の戦車を撃破した後にその搭載砲を奪って反撃に用いるなど、その戦いぶりは天皇陛下にも上奏されたそうです。西が火炎放射器の炎で顔半分を火傷下のもこの頃のことで、それでも彼の敢闘精神は衰えることがありませんでした。
戦場の露と消えた金メダリスト
圧倒的なアメリカ軍を相手に勇戦を続けて2週間。西連隊の頑張りもついに限界を迎えました。日本軍の通例では「名誉ある死」を選ぶことが常識のはずですが、栗林中将はそれを許さず、徹底抗戦を命じていました。西もまたその命令に従って後退を決意します。
ほとんどの戦力を失った西連隊の残存兵300は、3月21日に本隊と合流すべく北へ移動を始めました。しかし周囲はすでにアメリカ軍によって完全に包囲されており、脱出は絶望的となっていたのです。
戦車を伴うアメリカ軍の猛攻を受け、西中佐は戦死したとも自決したともいわれていますね。そしてようやく10人ほどが包囲を脱出できたのでした。
愛馬ウラヌスも西の死の一週間後、主人の死を悟ったのか眠るように息を引き取ったそうです。
最後の総攻撃
西連隊と同様に、他の日本軍部隊も圧倒的なアメリカ軍を相手に奮闘していました。3月を迎える頃にはすでに島の半分以上が占領されていましたが、それ以上に出血を強いる戦法を駆使して戦い続けたのです。
いっぽうアメリカ軍側は予想以上に損害が増大し、当初は4日程度で占領できると踏んでいたはずが、1週間経っても2週間経っても目途すら立ちませんでした。戦死傷者だけでなく、あまりの恐怖のために戦場ノイローゼになって後送される兵士も増え続け、作戦に齟齬をきたしていたのです。
しかし最後の瞬間は刻々と近づいていました。それを最も理解していたのは栗林中将その人だったのかも知れません。兵員や食料・弾薬の補給があるアメリカ軍と、一切の補給がない日本軍。その違いは時間の経過と共に如実になっていきました。
いくら頑健な精神があったとしても、水が無ければ人間は動けません。ことに硫黄島は水がほとんどない島です。水場を敵に奪われてしまえば、それだけで戦力は急速に低下していくもの。
事実3月4日には残存兵力は約4千に減っており、3月7日には栗林中将の厳命にも関わらず、千田少将率いる800の兵力が勝手に玉砕攻撃に出たのでした。この攻撃をアメリカ軍は的確に察知していて、ほとんどが戦死したそうですね。
やがて最後の複郭陣地へも攻撃を加えてきたアメリカ軍によって、司令部壕も直接攻撃に晒されるようになり、3月17日の時点では陸海軍合わせてわずか900の兵力が残っているに過ぎませんでした。
栗林は17日夜を期して最後の攻撃を決意し、大本営へ向けて訣別電報を送りました。敵の包囲のために実際の総攻撃は3月25日に行われましたが、彼らはアメリカ陸軍航空隊の宿営地を奇襲し、アメリカ兵170名を殺傷する戦果を挙げたのです。
栗林は大腿部を負傷して前進を続けますが、「屍を敵手に委ねてはならない。」と言葉を遺し、ピストルで自決。しかしこの攻撃はバンザイアタックではなく、あくまで敵への攻撃と混乱とを狙った計画的なものでした。
この一連の戦いの結果、日本軍は2万3千人のほとんどが戦死しました。しかしアメリカ軍側もそれ以上に大損害を受け、太平洋戦争唯一の「アメリカ軍のほうが死傷者が多い」戦いとなったのです。