フランスヨーロッパの歴史

影が薄くても凄い人だった「ナポレオン3世」その生涯をわかりやすく解説

ナポレオン3世の様々な政策

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ナポレオン3世はいわゆる無能として知られていますが、実は今のパリやフランスのインフラなどを整備したのは彼なんです。

次はナポレオン3世が一体どのような政策を行っていったのかを見ていきましょう。

 

経済・金融政策

フランスはたしかにヨーロッパの中では大国でしたが、経済的な面からするととっくの昔に産業革命を成し遂げているイギリスと比べるとかなり遅れており、フランスの一つの課題となっていました。

ナポレオン3世はこの問題を解決しようとサン=シモン主義を掲げます。サン=シモン主義は要するに技術者を優遇して経済を発展させた上で労働者の権利を向上させるというものでナポレオン3世はこの考えを支持。

ナポレオン3世は自由貿易を推進するために英仏通商条約を締結。その流れてヨーロッパの国々とも通商関係を結び自由貿易体制を確立。

フランスの産業革命が達成されていき、産業は大きく発展することになりました。

パリ改造計画

フランスを悩ませたもう一つの出来事がパリの人口の深刻な増加。

フランスが急激に経済発展すると労働者が大都市に集中するようになり、フランスの首都であるパリの人口は一気に増加。その結果過密状態な上に不衛生という悪循環が生まれていくように。

そこでナポレオン3世は皇帝就任の翌年である1853年からパリの改造を開始。

これまで無秩序に発展していき、ぐちゃぐちゃであったフランスの町並みは大きく変わり放射状に伸ばした道路で街を区画。計画的な大都市に生まれ変わり現在のフランスの街並みの8割方がこの頃できたと言われるほどの大事業を成し遂げました。

また、フランスを悩ませていた衛生問題も取り組み、1852年にパリの全ての建物に下水道をつける法律が提出されて以降、一気に下水道が建設。パリは一気に綺麗な街並みとなり、さらにこの頃発明されたガス灯も設置されある程度のフランスの夜を照らすこととなりました。

人気を高めるための外交政策

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ナポレオン3世の頃のフランスはフランスの威光を期待している人が多人数いたため、皇帝としての威厳を守り抜くために対外戦争や外交政策の連続でした。

皇帝となった翌年にはイギリスとロシアとの争いであるクリミア戦争に参入。イタリアが統一した時にはどさくさに紛れてニースとサヴォワを獲得するなどフランスの威厳を高める一方で、植民地政策にも参入していき、アルジェリアなどの北アフリカ・マダガスカル・インドシナ半島にそれぞれ進出。フランス植民地帝国の時代が幕を開け、第二次世界大戦の時まで植民地として支配することになりました。

しかし、ナポレオン3世の急進的な外交政策は他の国からの不満を招き、クリミア戦争の時にはロシアと、ニースを奪った時にはイタリアと仲が悪くなる結果も招いてしまいました。

さらに、アメリカが南北戦争を行なっている最中にメキシコに出兵。ハプスブルク家のマクシミリアンを皇帝にしましたが、メキシコの反発がとんでもなく大きく、最終的にはメキシコ出兵は大失敗。これ以降一気にフランス第二帝政は崩れていくことになるのでした。

普仏戦争の勃発

メキシコ出兵の失敗によって皇帝の権威に陰りが見え始めていきましたが、そんな彼の権力が一気に失墜することになった事件が普仏戦争でした。

中央ヨーロッパではプロイセン王国がオーストリア帝国に勝利して北ドイツ連邦を成立。フランスからしたら横に大国が成立したのですから危機感を募らせていたことでしょう。さらに当時まだ統一されなかった南ドイツの支配圏を巡ってフランスと北ドイツ連邦が対立。

さらにスペイン王位継承問題も起こり、王位をめぐって一気に戦争ムードが起こり始めました。

当時プロイセン王国の宰相であったビスマルクはこの険悪ムードを煽るためにフランスとプロイセンとの会談の結果を改竄するというかいわゆるエムズ電報事件を起こし、フランスの反プロイセン感情を煽り立てます。

ナポレオン3世を始めフランス国民は『舐められている!』と怒り心頭。そして1870年7月ナポレオン3世はプロイセンに宣戦布告。運命の普仏戦争が幕を開けたのでした。

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