普仏戦争による退位
こうして始まった普仏戦争でしたが、この戦争始めからわかっていたようなものでした。
フランスの陸軍はナポレオン1世の時代からあまり変化はなく旧式の武器を使っているのに対してプロイセン軍は名将と名高いモルトケ将軍率いるよく訓練され、装備・兵站とも完璧な精兵が揃っており、また対仏戦争に備えて鉄道を敷いており大規模な兵の運用も可能な状況となっていたのです。
こんな状態でフランスが勝てるはずもなく、フランス軍は総崩れ。メスではフランスの全兵力の半分近くである18万の捕虜を出してしまいフランスの負けは決定的なものになってしまいました。
さらに、ナポレオン3世は陣頭指揮をしていたことが仇となってセダンの戦いで捕虜となってしまいます。皇帝が捕虜になることは国を裏切ったことに等しく、このナポレオン3世が捕虜になったニュースはすぐさまフランス全土に伝わりプロイセンに降伏した9月4日ついに第二帝政は崩壊。皇后は泣きながら「なんで夫は突撃して名誉の戦死をしなかったの!捕虜になって息子にどんな名前を残すつもりなのよ!」と叫んだとされています。
ナポレオン3世のその後
普仏戦争の結果フランス第二帝政は崩壊。
ナポレオン3世も自動的に退位することになりイギリスに亡命。ここで使用人や皇后や息子とともに悠々自適な生活を送ることになりました。フランスではパリコミューンが政権を握った後第三次共和政が成立。もはや帝政の時代は時代遅れなものとなっていました。
しかし、ナポレオン3世は最後までフランスに返り咲くことを夢見てクーデターの計画を練っている最中1873年に64歳で亡くなりました。
ナポレオン3世はフランスを大きく変えた
ナポレオン3世の評価は良くないものばかりですが、彼がいたからこそ今のパリの街並みはあり、さらにはフランスが産業を大いに発展させる足場もなかったのではないかと思います。
ナポレオンといえばナポレオン1世かと思うかもしれませんが、ナポレオン3世の激動の生涯も感じ取ってみるのもいいかもしれませんね。