その他の国の歴史

中南米の革命の闘士「チェ=ゲバラ」を元予備校講師がわかりやすく解説

キューバ革命を成功させ、親米のバティスタ政権を打倒

革命軍でのゲバラの役割は軍医でした。医学部出身だったことを考えると当然のポジションです。しかし、ゲバラは徐々に才能を発揮しました。

自分たちの主張をキューバの人々に伝えることが大事だと考えたゲバラはラジオ局「ラジオ~=リベルデ」を設立します。ゲバラは技術者や元アナウンサーなどの協力を得て自分たちの主張を人々に伝えました。

また、ゲバラは忍耐強く誠実な人柄で人々に慕われます。理知的で情勢分析力が高く、人望を集めたゲバラは次第に革命軍のリーダーの一人と目されるようになりました。

兵力が増えた時、カストロは弟のラウルやほかの幹部ではなく、ゲバラを第二軍団の司令官とします。ゲバラはカストロの期待に応え、戦闘でも活躍しました。

1958年12月29日、ゲバラ率いる第二軍がサンタ=クララ市を制圧。1959年1月1日にバティスタがドミニカ共和国に亡命することでキューバ革命は達成されました。

キューバ革命後のゲバラ

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キューバ革命後、盟友のカストロと意見が合わなくなります。革命の理想にあくまでも忠実なゲバラと国家を率いるリーダーとして現実的な選択をするカストロ。二人の思惑はすれ違い、関係修復ができなくなります。1965年にカストロと決別したゲバラは各地のゲリラ活動に身を投じますが、1967年、ボリビア政府軍にとらえられ銃殺されました。

盟友カストロとの訣別

革命成立直後、ゲバラは旧バティスタ政権派の裁判を実行。およそ600人を処刑します。1959年6月、ゲバラは新政府の通商大使として世界各国を歴訪しました。革命の偉業は世界に広く知られていたため、各国で熱狂的な歓迎を受けます。

また、国立銀行総裁にも就任し、国内改革に力を尽くしました。革命政権の中枢にいながらゲバラの生活は質素そのもの。粗末なアパートに住み、軍服姿も革命前のままだったといいます。ゲバラは日本にも来たことがありました。その時は池田通産大臣と会談し、広島を訪問します。

ゲバラの理想はキューバを工業化することで原料供給地の立場を脱することでした。しかし、アメリカとの対立を控え、ソ連の支援を必要としたカストロは砂糖を要求するソ連の主張に同調。工業化よりも砂糖生産を優先します。

しだいに、カストロと意見が合わなくなったゲバラは、1964年にカストロ宛の手紙を残して姿を消してしまいました

各地のゲリラに身を投じるゲバラ

1965年、ゲバラはアフリカのコンゴ民主共和国にいました。ゲバラはコンゴ動乱に参加しますが、コンゴ兵のあまりの士気の低さに失望したといいます。ゲバラはコンゴ滞在中にぜんそくの発作を発症。チェコスロヴァキアでの静養を余儀なくされました。

体調回復後、ゲバラは秘密裏にキューバに帰国。カストロと会談後、アフリカでの革命をあきらめ南米のボリビアにわたりました。ボリビアでは、一度は革命派が政権を立てましたが軍事政権にとって代わられています。ゲバラはボリビアでの革命を成功させ、南米各地に革命政権を広めようとしました。

しかし、ボリビアではゲバラの思い通りにはいきませんでした。ボリビア共産党はゲバラへの支援を拒否。カストロからの支援も滞りがちになったからです。また、ボリビア政府軍はアメリカの支援をうけ、強力なゲリラ対策を展開。ゲバラは追い詰められていきました。

ゲバラの死と死後も残るゲバラの影響

1967年10月8日、20名ほどのゲリラ部隊と行動を共にしていたゲバラは政府軍の襲撃を受け、捕らえられます。ボリビア政府軍はゲバラを銃殺しました。これで、生身の人間としてのゲバラは死んでしまいます。しかし、ゲバラは死後も世界各地に影響を与え続けました。

現在よく知られるゲバラの肖像画は1960年代後半に広く流布したものです。ゲバラは反米思想を持つ人々や南米の反軍事政権の人々にとってシンボルとなりました。特に南米でのゲバラの人気は絶大です。

日本でも、ゲバラの肖像入りのTシャツが売られているので、多くの人が目にしているかもしれませんね。

1997年、キューバとボリビアの合同捜索隊は銃殺されたゲバラの遺体を発見。遺骨がキューバに戻ることになりました。ゲバラの遺体はキューバ中部のサンタ=クララの霊廟に収められます

革命の英雄か、それとも、政治体制を混乱させる攪乱者か

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ゲバラは一医学生でありながら、キューバ革命成功に大いに貢献します。そのため、アメリカ資本による露骨な搾取に苦しんだ中南米では英雄視されました。その一方、自分の理想実現のために各国で活動したため、活動先で混乱や戦闘を引き起こしたとする批判的な評価もあります。歴史の評価が立場によって大きく異なる良い例でしょう。

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