ヨーロッパの歴史

中世に終わり告げたルターの「宗教改革」詳しくわかりやすく解説!

ローマ教皇レオ10世の贖宥状がきっかけに

1515年にローマ教皇であったレオ10世は、ローマ教会のサン・ピエトロ大聖堂の建築資金という名目で贖宥状(しょくゆうじょう)を発売し始めていました。サン・ピエトロ大聖堂は、トム・ハンクス主演の映画「天使と悪魔」などでも有名ですね。各キリスト教教会は、その贖宥状を積極的に販売しようとしていたのです。

本来、キリスト教での贖宥は、犯した罪に対して神の許しを得られる行為のことでした。通常、罪に対して告白して秘跡の授与を受け、悔い改めることが必要だったのです。しかし、ローマ教皇のレオ10世は、金銭を払うことによって贖宥が受けられ、贖宥状の購入によって罪の償いができるようにしました。その考え方に対しては、当時のキリスト教の神学者からは大きな批判が高まっていたのです。その中の1人であった、当時ヴィッテンベルク大学の神学者であったマルティン・ルターは、正面切ってその贖宥状を批判しました。それが、宗教改革の発端になったと言われているのです。

神学者マルティン・ルターの批判が始まりになった

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このマルティン・ルターの贖宥状発行に対する95ヵ条と言われる教会批判は、グーテンベルクの活版印刷技術によって、瞬く間にヨーロッパ中に広まっていきました。ローマ教会に不満を持っていた当時の多くの人々がその意見に同調したことから、宗教改革の大きなうねりになっていったのです。

活版印刷技術の発展によってルターの批判は瞬く間にヨーロッパに広まった

当時のグーテンベルクの印刷技術によって、ルターの95ヶ条の教会批判は印刷物として各地に伝えられていきました。それは、まるで現代のインターネットの発明によって、情報の垣根がなくなり、いつでもどこでもさまざまな情報がボーダーレスに拡散していくのと同じだったのです。

それまでは、人の口と自筆で書いたものだけが情報伝達の手段であった中世では、情報というものを広めることはできませんでした。しかし、グーテンベルクの活版印刷技術の発明によって、出版物というものが可能になり、広く人々に情報を広めることのできる手段ができたのです。日本の江戸時代にも活版印刷まではいきませんが、かわら版という木版で印刷した号外のような印刷物が情報の拡散手段になったのと似ていますね。

この活版印刷技術によって、ルターの教会批判はヨーロッパ中で不満を持った人々の支持を取り付けることができたのです。

宗教改革は中世のカトリック教会の支配を崩壊させた

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ルターの教会批判は、キリスト教は教会を原点にするのではなく、本来の聖書を原点として学び、信じるべきだという、原理主義として広がっていきました。これが宗教改革と言われるものだったのです。教会を批判する人たちは、旧来のキリスト教をカトリックと呼び、新たなプロテスタント派を成立させました。それは、すなわち、ローマ教皇を頂点とする旧来のキリスト教のカトリック派の権威を崩壊させ、同時にそのローマ教皇によって指名されていた神聖ローマ帝国皇帝の権威を一気に崩壊させたのです。

ローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝の権威の失墜

西ローマ帝国が崩壊したあと、ローマ教皇は、教会を庇護してくれる仮想の神聖ローマ帝国を作ります。その初代皇帝として当時の西・中央ヨーロッパで最強国であったフランク王国の カール大帝を神聖ローマ帝国皇帝として指名しました。この神聖ローマ帝国皇帝は、中世においては常にローマ教皇が指名するようになります。中世のキリスト教教会の頂点に立つローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝によって、実質的な支配だけでなく、宗教上の支配においても秩序規範を確立したのです。

その権威によって、各領主や教会の司教は自らの地位を固めることができました。しかし、その権威は揺らぎ、各領主たちは独立して自らの国というものを考えるようになっていきます。当時、各領主は、協会に対して税金を払っており、権威が揺らいだことでそれが余計なものに見えてきたのです。

新興国のプロテスタント派への移行

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宗教改革が受け入れられたのは、マルティン・ルターのいたドイツよりも、オランダ、イングランド、スイスなどの新興国でした。それらの国は、神聖ローマ帝国の皇帝とローマ教皇による支配を嫌い、自分たち自身で支配地を納められる権威を求めたのです。それに応じたのが、プロテスタント派の協会でした。

また、オランダやスイスなどでは、商業が栄えていましたが、古いカトリック的な教えでは商売による儲けを否定されていたのです。しかし、プロテスタント派はそれらの商業を認知してくれたことによって支持が拡大していきます。

そのため、しだいにプロテスタント派に改宗する領主も増えていきました。

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