日本の歴史江戸時代

「旗本」はつらいよー江戸時代のサラリーマンたちの苦労と悲哀を解説

江戸の貨幣経済が「武士の家計簿」を圧迫する

当時の武士たちの収入は全てコメでした。毎日コメだけ食べて生活できるのならいいのでしょうが、そうはいきません。味噌や醤油、何を買うにも貨幣(現金)が必要になりますよね。ですから江戸に住む旗本・御家人たちは収入が入るやこぞってコメを現金化したのです。

とはいっても収入の原資がコメだけですから、それが彼らにとって生活を直撃する悩みのタネともなりました。天候によって作柄が左右されやすいコメは、年によって収穫量も違いますし、それによって米相場も変動します。たくさん収入があったからといって、いざ現金化しようとすれば相場が下がってしまい、思うような額にならない…

江戸時代中期に、荻生徂徠が書いた「政談」の中にもそのような記述が見受けられますね。

 

其上昔ハ在々ニ殊ノ外銭払底ニテ、一切ノ物ヲ銭ニテハ買ハズ、皆米麦ニテ買タルコト、某田舎ニテ覚タル事也。近年ノ様子ヲ聞合スルニ、元禄ノ頃ヨリ田舎ヘモ銭行渡テ、 銭ニテ物ヲ買コトニ成タリ。当時ハ旅宿ノ境界ナル故、金無テハナラヌ故、米ヲ売テ金ニシテ、商人ヨリ物ヲ買テ日々ヲ送ルコトナレバ、商人主ト成テ武家ハ客也。 故二諸色ノ直段、武家ノ心儘ニナラヌ事也。武家皆知行処ニ住スルトキハ、米ヲ売ラズ二事スム故、商人米ヲホシガル事ナレバ、武家主ト成テ商人客也。

出典元 「政談」

 

【現代訳】

その昔は持っている銭が底を着いたとしても、物を買うには銭ではなくコメや麦を代償に買えたものだ。それが近年の様子を伝え聞くところによると、ちょうど元禄の頃から田舎にまで銭が行き渡るようになり、銭で物を買うことが当たり前になった。まるで旅宿にいるような不安定なもので、銭がないと生活できないからコメを売って銭にし、商人から物を買って日々を送ることになるから、商人にとっては武士は上客のようなものになっている。それゆえ物価の変動については武士たちの思うようにならず、皆困っているようだ。知行地を持っている武士ならコメを売らずに済むこともあるので、商人がコメを欲しがった時には、武士にとって商人が上客のようになっている。

 

実は幕藩体制の決定的ミスはそこにあり、米本位制に固執しすぎたがために武士の困窮を招き、農民たちの暮らしを直撃しました。そして徳をしたのは商人たちだけ。商人たちはコメを現金化するのにも手数料を取り、金貨を両替するのにも手数料を取り、さらには武士たちに金を高利で貸し付けました。実際に日本を牛耳っていたのは武士階級ではなく商人だったといえるでしょうね。

プライドを捨てて副業や内職に手を出す旗本・御家人たち

収入だけでは食べていけない旗本・御家人たちは、貧乏のあまりに売れる物は全て売り、内職をして生計を立てることさえ当たり前となりました。中には娘を吉原に売ったり、庭でコオロギや金魚を育てて市場で売る者すら現れたのです。

江戸時代後期になると、将軍直属のプライドはどこへやら。富裕な商人に、特権階級であるはずの武士身分まで売ってしまう者まで出てきました。まさに末期的症状を呈していました。

文化文政期の記録にも、当時の旗本・御家人たちの困窮ぶりが書かれていますね。

 

「なべて武家は大家も小家も困窮し、別て小禄なるは身体甚だ見苦しく、或いは父祖より持ち伝へたる武具、及び或いは先祖の懸命の地に入りし時の武器、そのほか家に取りて大切の品をも心なく売り払い、又拝領の品を厭はず質物に入れ、或いは売物にもし、また御番の往返り、他行の節、馬に乗りしも止め、鑓を持たせしを略し、侍若党連れたるも省き。如何ニも当世は、武辺と律義ハ世の禁物也。」

出典元 「世事見聞録」

 

【現代訳】

「武家(旗本・御家人)は大身の者も小身の者も皆困窮し、わずかな俸禄しか頂いていない者は非常にみすぼらしい身なりとなってしまった。代々受け継がれた武具や、先祖が苦労して所領を得た時に持っていた武器、あるいはその家にとっての家宝ですらあっさりと売り払ってしまう者もいる。将軍から拝領した品も質に入れたり売り払ったりもしている。また、勤務の行き帰りに乗るはずの馬や槍持ちの中間ですら廃し、お供の者を引き連れることもやめてしまった者も多い。今の世の武士にとって、武士らしい強さや生真面目さは縁がないもののようだ。」

窮乏の中、旗本・御家人たちは本来の役目を果たせたのか?

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By 不明 – Illustrated London News, パブリック・ドメイン, Link

貨幣経済の発達していくいっぽう、相変わらずの米本位制に固執していた武家社会。ごく一部をのぞく旗本・御家人たちの生活はますます困窮していきました。しかし幕末の最後の時期になって、ようやく彼らの本来の役目を果たす時がやってきたのです。果たしてエリート意識を取り戻す時が来たのでしょうか。

幕府が救済策を試みるも…実を結ばず

幕府も、彼ら旗本・御家人たちが窮乏していくのを黙って見過ごしていたわけではありません。救済のために様々な施策が行われましたが、せっかくのアイデアがトンチンカンで見当違いなものであれば、それは悲劇でしかありません。

名君といわれた徳川吉宗が主導した享保の改革も、緊縮財政を謳って引き締めに掛かりました。そこまではいい。しかし新田開発など、コメの増産を積極的に奨励し、旗本・御家人たちの収入を増やそうとします。ところがコメがいくら収穫できようが日本の人口そのものが増えないのなら、余剰となったコメの価格は下がるに決まってますよね。一時的に旗本・御家人の暮らしが安定しようとも、そんなものは焼け石に水に過ぎません。

また、旗本・御家人たちが収入で得たコメを現金化する際、自分たちの代わりに札差(ふださし)という業者を介していました。手数料収入だけを得ていた札差も、武士との関係が深まるにつれて金の貸し付けも行うようになり、当初は「当座の金だけを…」と考えていた旗本・御家人たちも、意外と金利が高いことに気付きました。しかし家計が火の車になるほど困窮していた彼らは、札差から更なる借金を重ねていき、ますます困窮していくことに。

そこでまた幕府が介入して旗本・御家人の救済に乗り出すのですが、それが「棄捐令(きえんれい)」という悪政でした。彼らの膨大な借金を棒引きにしてしまおうという乱暴な政策で、わかりやすくいえば、借金を抱えている旗本・御家人を全員自己破産させてチャラにするということなのですね。

 

此の度御蔵米取御旗本・御家人勝手向御救の為、蔵宿借金仕法御改正仰せ出され候事。

一 御旗本・御家人 蔵宿(札差)共より借入金利足の儀は、向後金壱両ニ付銀六分宛の積り、利下ケ申し渡し候間、借り方の儀は、是迄の通蔵宿と相対に致すべき事。

一 旧来の借金は勿論、六ケ年以前辰年までに借請け候金子は、古借・新借の差別無く、棄捐の積り相心得べき事。

出典元 「御触書天保集成」

 

【現代訳】

このたび旗本・御家人の窮状を救うため、借入金に関する政令を改正することにした。

一、旗本・御家人が札差から借りている借入金の利息に関しては、今後は金一両に対して銀六分であること。借りた側はこれまで通り、付き合いのある札差と交渉すること。

一、以前からある借金はむろんのこと、六年前にまでさかのぼることができる借入金は、古い新しいの区別なく帳消しとすること。

 

考える以前に、こんなムチャクチャな政策がうまくいくはずもありません。当の旗本・御家人たちは喜びましたが、それは同時に武士の信用をなくすということ。再び生活費に困って借金せざるを得なくなった時、札差たちが金を貸してくれる訳がありませんよね。

結局この政策は、旗本・御家人たちを救済するどころではなく、破綻に追い込まれてしまいました。そればかりか被害を受けた札差たちを救済するために、逆に幕府から援助が行われたくらいです。

長州征討と鳥羽伏見の戦い

幕末近くになると、アヘン戦争や打ち続く諸外国の接近によって、危機感を覚えた幕府は西洋式軍制へと舵を取ります。それによって旗本・御家人の指揮の元、幕府陸軍が創設され、関東各地からの志願兵が担うことになりました。元来は農民・町人身分の者が陸軍の主戦力となったわけで、「旗本・御家人こそが幕府親衛隊」という従来の考え方から180度転換することになったわけです。

奇しくも長州征討の際、かねてから窮乏していた旗本・御家人たちは戦うための馬や武具すら持っていない者も多く、幕府の御用金で何とか用立てる有様で、そんな装備も士気も上がらない状態ではとても勝ち目などありません。実戦経験がなく、プライドばかりが高い彼らは、戦場ではもはや張り子の虎同然でした。

続く鳥羽伏見の戦いでも同様で、数で勝りながらも惨敗。長い太平の世に慣れてしまった彼らは、よく訓練された新政府軍の敵ではありませんでした。やがて江戸城が開城。なおも抵抗するべく旧幕府軍(彰義隊)は戦いを挑みますが、そこには旗本・御家人たちの姿はほとんどありませんでした。頼みの江戸城もなく守るべき将軍もいない。だからあえて負け戦をするつもりはなかったのですね。

やがて明治維新を迎え、新しい時代が到来しました。しかし、そこにはもはや武士の居場所はなかったのです。

もし旗本・御家人が貧乏ではなかったら?

image by PIXTA / 48202015

「たられば」の話になりますが、もし旗本・御家人が貨幣経済の流れに埋もれずに生き抜き、幕府の経済政策もまっとうなものであったなら、幕末にあれほど幕府軍が負けることはあったでしょうか。旗本・御家人たちとその家来たち合わせて8万人もの大兵力ですし、もう少し頑張っていたのではないかな?と感じます。ただ、いずれにしても巨大な幕府機構の歯車として生きていくしかなかった彼らは、やはり「戦うことを忘れた武士」だったことに変わりはないのです。

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明石則実