大海人皇子は天皇位への野心を隠して吉野に出家
大海人皇子は、一族を連れて、吉野で出家します。しかし、同時に、長男の高市皇子を吉野から脱出させて、東国の支援を受けられるように説得に行かせました。伊勢、美濃などの国に、天智天皇が亡くなった時には、大海人皇子の求めに応じて挙兵するように同意させたのです。
このようにして、大海人皇子は、吉野で出家していましたが、天皇位を諦めたわけではなく、兄の天智天皇が逝去されるのをじっと待っていました。
天智天皇の逝去とともに壬申の乱の火蓋は切られた
672年1月7日(旧暦671年12月3日)に、天智天皇は46歳という若さで崩御されました。この時に、大友皇子は、まだ24歳になったところであり、朝廷での信頼も厚くはなかったのです。
天智天皇崩御の知らせを聞いた大海人皇子は、すぐに吉野を立ち、東国に向かいます。途中には名張などで反対勢力に遭遇しました、高市皇子の説得に応じた伊賀、伊勢、美濃、熊野などの勢力が馳せ参じて、大海人皇子は美濃に入ることができました。そこに、東海道や東山道などの諸国から兵が馳せ参じ、大軍勢を持つことができたのです。
一方、大津宮では、天智天皇が崩御された時に、吉野の大海人皇子を討伐しようと進言する者もいましたが、大友皇子の決断は遅れました。その結果的に大海人皇子の脱出を許し、大和は大友皇子派と大海人皇子派が戦いを繰り広げ、大混乱に陥ってしまったのです。
大海人皇子の美濃での挙兵
美濃で大兵力を集めた大海人皇子は、正式に大津宮に叛旗を翻す(挙兵)ことを宣言し、軍勢を大和と近江の二つの方面に向けて送り出します。
それに対して、大海人皇子が挙兵したことを知った大津宮では、東国や吉備(中国地方)、筑紫(九州地方)に出兵を命じました。しかし、東国はすでに大海人皇子が抑えており、筑紫なども命令に従わず、大津宮は、近畿の兵を集めただけに過ぎなかったのです。
瀬田川での戦いで形勢は決まった
大海人皇子の軍隊は、大和を制圧するとともに、近江の瀬田川に架かる橋で大津宮軍を大敗させます。この瀬田橋は、源義経が当時都を占領していた木曽義仲を破って、追い落とした場所でもありました。大津や、京都にとっては最後の砦であったのですが、いずれも東国から攻め込んだ側が勝利しています。
大津京の大友皇子は自害
この大敗によって、天下の形勢は固まり、朝廷の貴族たちは大友皇子や大津宮を捨てて、逃げ出します。しかし、側近たちは大友皇子に逃げるようにすすめますが、大友皇子は、自身の置かれた立場を悟って、首をつって自殺してしまいました。そして、大津宮は火に包まれ、焼け落ちてしまいます。これによって、大津宮の都としての機能は終わり、天智天皇の大友皇子を即位させるという夢ははかなくも散ってしまったのです。
なお、後に大友皇子は弘文天皇と送り名されています。
天武天皇の即位による日本の天皇制の確立
大海人皇子は、大津宮には入らず、大和に帰還して、飛鳥の島宮で即位し、後に飛鳥岡本宮に入られます。この飛鳥岡本宮は、飛鳥浄御原(きよみはら)宮と呼ばれるようになります。同時に、皇后として鸕野讃良皇女を立て、大臣を置かずに天皇親政による政治をおこないました。