平安時代日本の歴史

最澄(天台宗)と空海(真言宗)はなぜ絶縁関係に?2人の対立の流れをわかりやすく解説

嵯峨天皇の即位と空海の重用

最澄と空海が帰国した時、日本の天皇は桓武天皇から嵯峨天皇に変わっていきます。

日本ではこれまでの奈良仏教ではなく修行によって即身成仏を目指す密教がにわかに注目されるようになり、それを唐で完全にマスターした空海は朝廷から注目を浴びるようになり嵯峨天皇のお気に入りの僧侶として変貌を遂げました。

空海は816年ち嵯峨天皇から高野山を、823年には平安京にある東寺を賜り遂に平安京内に真言宗の寺院を立てるに及びます。

さらに、空海は奈良仏教とも友好的であり、東大寺に真言宗専用の戒壇をたてて真言宗の僧侶を輩出できるようになりました。

最澄と奈良仏教の対立

朝廷に重用されるようになった空海とは別に、最澄の方は苦難の連続。最澄は帰国した後修行した地である比叡山に延暦寺を建立して天台宗を成立させるのですが、やはり密教を習得することができなかったのが最大の弱点。そこで最澄は自分のプライドの地位を捨てても密教を学ぶために7つ下の空海の弟子となったのです。

元々はエリート僧で努力家であった彼の密教に対する意識から2人は尊敬し合う仲となっていきます。

しかし、奈良仏教との仲はというと最悪なもので真面目な性格の最澄は仏教に真摯でない奈良仏教に真っ向から対立。しかし、それが原因で天台宗は真言宗とは違い戒壇を建てることが出来ず天台宗の僧侶は正式な僧侶になれないという状況に突入。

さらに、この最澄と奈良仏教の関係の悪化に集中しすぎたことによって空海との中も最悪なものとなってしまうのでした。

空海と最澄の仲違い

最澄はとある日空海から経典を借りようとするのですが、空海はそれを拒否します。

「ケチだなぁ」と思うかもしれませんが、空海からすれば密教は経典を読むだけでは何もできず、弟子としてコツコツと修行することで即身成仏できると考えいたため最澄の考えとは全然違っていたのです。

しかし、最澄は奈良仏教との論争や比叡山の方で大忙し。修行を行う暇なんてなかったのです。

さらに、最澄の一番信頼していた一番弟子が最澄を裏切って空海の弟子になるという事件も発生。最澄はこれにひどく悲しみなんとか考えを改めてくれと懇願するのですが最終的にはこれは叶わず、最澄はその後にひっそりと入寂することとなりました。

最澄の天台宗と空海の真言宗のその後

image by PIXTA / 45381072

こうしてひっそりと亡くなった最澄でしたが、彼の死から7日後どんでん返しが起こることとなります。なんと朝廷から比叡山に戒壇を建立しても良いという勅令が発令。その裏側には当時台頭していた藤原北家の藤原冬嗣が関係しているという噂がありますが、これによって天台宗が完全に成立。さらに最澄が密教を完全にマスターしていなかったことが返ってほかの仏教を取り入れる余地を生み出し、天台宗は彼の弟子であった円仁は平安時代に大流行する浄土念仏も取り入れ、のちの鎌倉仏教の発信地となるほどの日本の仏教の総合センターのような働きをするようになりました。

その一方で空海は賜った東寺と開山した高野山の地にて空海自身が学んだ真言を広めていくことになります。

最澄と空海。お互いに面識を持ち最終的には絶縁するようになりましたが、その2人がいたからこそ今の日本の仏教はあるのかもしれませんね。

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