#4 残酷ならこれがナンバーワン【兵糧攻め】
人は生きていく上で水と食料は絶対に必要。もちろん戦国大名は籠城戦を行った時にその必要不可欠な物資をなんとか貯めていくのですが、敵の戦意をなくすためにこの兵糧が切れるまで悠長に囲んでおくという戦法も取られるようになりました。これがいわゆる兵糧攻めなんですがこの兵糧攻めというのは紹介する8つの中で一番悲惨なもの。
代表的な兵糧攻めに鳥取城の干殺しというものがありましてこの戦いを指揮した羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は当時毛利家の城であった鳥取城に兵糧が来ないように海上と陸路を封鎖。さらに鳥取城付近の村々の田んぼや家を焼き払ってその農民達を鳥取城にわざと逃げ込ませたんだとか。
「あれ?敵の数が増えたけどいいの?」と思うかもしれませんがこの時鳥取城には20日分の食料しか残されておらず、さらに農民がやってきたためみるみるうちに兵糧は枯渇。兵糧が切れて2週間ぐらい経つと城内のありとあらゆる食べられるものが食べ尽くされ、死んだ兵士の肉や馬の骨を食べた程の悲惨な状態だったそうで織田信長の生涯を描いた信長公記には「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と秀吉側にもダメージを与えそうな状況でした。
もちろん敵側はこんな状態で籠城戦なんて続行できるはずもなく城主が切腹する条件で開城。
まさしく兵糧攻めは悲惨な攻め方だったのですね。
#5 土竜攻め
兵糧攻めでは食料をなくすための作戦でしたが、戦国時代には飲料水をなくす作戦も行われていました。その作戦の名は土竜攻め。この作戦は土竜みたいに地中を掘って水の手を絶って落城に追い込むというものでした。
この作戦を得意としたのが甲斐の虎と恐れられていた武田信玄。武田信玄は徳川家と争うことになった時に野田城という小さな城ながらも地形が険しく攻めにくい城を囲んだ時にわざわざ甲斐から鉱山を掘っていた金堀衆を招集して野田城の水の手を切って落城に追い込みました。
こちらの記事もおすすめ
甲斐の虎、武田信玄の生涯をわかりやすく解説! – Rinto~凛と~
#6 奇襲と策略による落城
力こそが正義であった戦国時代ですが、そんな時代にも謀略によって城を落とすという例もありました。
例えば稲葉山城を本拠地として美濃一国を治めていた斎藤家の家臣竹中半兵衛は弟が病気となったことを理由に医者を連れてきたという口実で少ない手勢で城を占拠したり、これは落城ではなかったものの大坂の陣では天下の堅城であった大坂城を講和によって城の大事な部分である堀を埋めて無理矢理野戦に持ち込むなど様々な謀略が行われていました。
なにも、城をただ単に攻めるだけが攻城戦ではなかったということなんですね。
こちらの記事もおすすめ
三顧の礼で豊臣秀吉に迎えられた戦国一の天才軍師!短い生涯を駆け抜けた竹中半兵衛 – Rinto~凛と~
防御側のいろいろな対策
攻撃とくれば必ずくるのが防御。戦国大名はいろいろな策略や攻撃を加えてなんとか城を落とさないようにしていました。次は防御側はどのようにして城を守って行ったのかを見ていきましょう。
攻城兵に対する攻撃
戦国大名が一番想定していたのが力攻め。そのため姫路城や熊本城など日本の名だたる城はいろんな工夫を凝らしてなるべく敵に被害が当たるようにしていました。例えば敵が城の中に攻めてきた時や、城の塀に登ろうとした時には狭間という場所から弓や鉄砲などを準備して狙撃したり、石や岩などをぶつけたり、丸太などを落としたりして敵にダメージを与えていました。
その他にも、捕虜の首を敵に投げつけて相手の恐怖心を煽ったり、戦意喪失を狙って厭戦ムードにして撤退に追い込むなど心理的なダメージを与えるようにしていました。
心理的な策略
城が攻められることは承知の上ですが、やはり守る側も出来るだけ損害を少なくしたい。そのために城に攻められないように策略を作っておくこともありました。その例の一つに三方ヶ原の戦いの後の徳川家康の空城の計がこれに当たります。
徳川家康は三方ヶ原の戦いにおいて武田信玄にコテンパンにやられてしまい命からがら浜松城に帰還しました。しかし、信玄からしたら攻撃を行う絶好の機会。ここで浜松城を囲んだら徳川家は一巻の終わりです。そのため徳川家康は会えて城の門をガラ空きにするという策略をとりました。「でも、そうすると敵が流れ込んでしまうのではないのか?」と思うかもしれませんが、こうすることによって敵に「あれ?もしかしたら攻めた時に急襲を仕掛けられてしまい返り討ちにあう策略を仕掛けているのではないか?」という考えに陥り、その警戒心から城を攻めることをためらわせようとしたのです。
この作戦は大当たり。武田信玄は浜松城を攻めることなく兵を引き上げることにしてなんとか浜松城は攻められることはありませんでした。