日本の歴史江戸時代

50歳からでも全然大丈夫!精巧な地図を作った「伊能忠敬」の生涯について解説!

蝦夷地の地図作成

こうして江戸に帰ってきた伊能忠敬でしたが、さらにここから蝦夷地で測ったデータをもとに地図を作成する作業が残っていました。伊能忠敬は妻の協力を得て20日がかりで地図を完成。一応の目的であった地図作成を達成して江戸幕府に提出しました。

ちなみに、この蝦夷地探検の時に使ったお金は機材を含めると175両。しかし幕府からはわずか22両しか渡されてはおらず153両は自腹という形でした。でもこの蝦夷地の地図は幕府が予想していたよりもはるかに良いものであり師匠の高橋至時にも「大方位盤(測量器具のひとつ)を使わなかったのは残念だけどここまでできるとは思わなかった」と賞賛を受けました。

ちなみに、伊能忠敬の本来の目的である緯度の方はというと一度が27里と回答したんだとか。

伊能忠敬の測量ってどんな感じだったの?

伊能忠敬は導線法と交会法いう方法で地図を作成していました。今でこそ測量というのは三角測量という方法で行われていますが、この時代にはそんな方法は伝来していません。

導線法は簡単に言えば2点の距離とその方角を連続して求めるというもの。測量を開始するところに測量器具を置き、少し離れたところで梵天という目印を置いて測量器具から梵天の距離と角度を測っていきます。

しかし、この方法をしているとどんどん誤差が生じていき、最終的には正確な地図を作ることが難しくなってしまいます。そこで使われたのが交会法。

これは目標物までの距離を測ってそこから角度を測ります。こうすることによってどれだけの誤差が生じたのかがわかるため角度を調整することが可能となったのです。

さらに伊能忠敬は歩幅と言うものを重視していました。第2回目からは間縄というものを使って距離を測ることが可能となりましたが、蝦夷地の地図を作った時には歩幅を頼りに測量をしていました。「でも、歩幅だと度々ずれるかもしれないじゃん?」と思うかもしれませんがご安心を。忠敬は歩幅を69センチで統一するという訓練を地道に行い、最終的にはそれを見事に達成。伊能忠敬の根性は恐るべきものでした。

2度目以降の測量と大日本沿岸海輿地全図

こうして測量を終えた伊能忠敬でしたが、彼は翌年にすかさず第2回目の測量をスタート。元々蝦夷地を再び測量する予定だったのですが、最終的に東日本の沿岸部を測定することとなり、230日をかけて測量を行いました。

ちなみに、この測量で一度を28.2里という正確な数値を弾きだしました。

その後も伊能忠敬は地図の作成にとりあえずは力を注ぎ、3回目は日本海の沿岸を、4回目は東北・北陸地方の沿岸部を測定。ちなみにこの時西洋の天文書で書かれていた緯度一度が伊能忠敬が弾きだした28.2里とほとんど同じことが分かり、これを知った伊能忠敬と高橋至時は喜びあったんだとか。しかしその後に師匠が急死。伊能忠敬は彼の意思を受け継いでその後も5回目には近畿・中国地方を、6回目には四国地方を、7回目と8回目には九州地方を、9回目には伊豆諸島を測定。9回目の測定の時にはもう伊能忠敬は70歳を超えておりいつ倒れてもおかしくなかったのですが、彼は最後の力を振り絞り地図を作成。そして伊能忠敬は1818年に74歳の生涯に幕を下ろしました。その後地図の作成事業は弟子たちが引き継ぎ彼の死から3年後である1821年に遂に大日本沿岸海輿地全図が完成。幕府に提出して彼の生涯を捧げた地図作成のプロジェクトは終わりを迎えたのでした。

大日本沿岸海輿地全図のその後

Ino-zu-90-Musashi Shimousa Sagami.jpg
By 測量・製作:伊能忠敬[1] – この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, Link

こうして人生を捧げて作成された大日本沿岸海輿地全図。この地図が賞賛されるのは実は思わぬところからのものでした。

最後はどのようにして彼の地図が注目されていったのかを見ていきましょう。

大日本沿岸海輿地全図とシーボルト事件

伊能忠敬が作成した大日本沿岸海輿地全図は幕府に提出された後江戸城の倉庫に厳重に保管され、一般の人の目には触れらることはありませんでした。

実は地図というものは軍事的な面ではどこを攻めるのがいいのか?どの地点を守れば効率的に国を守れるのか?ということを示しているものでもあり、これが一般の人の目にも触れるということになるともし幕府を倒す時にこの地図を利用されてしまい効率的に攻められるかもしれません。

そのために幕府は必死にこの地図を隠し通していたのですが、1828年にあろうことか伊能忠敬の師匠である高橋至時の息子である高橋景保は当時長崎のオランダ商館の医師であったシーボルトに対して伊能忠敬の地図を渡すということが発覚。これによって高橋景保は逮捕されてその後獄死。シーボルトも国外退去を命じられてしまいました。いわゆるシーボルト事件というやつです。

この事件によりヨーロッパにも伊能忠敬の地図が広がり、ヨーロッパに伊能忠敬の技術の高さが認識されるようになりました。

アクテオン号の測量

時代は流れて日本が開国した後の1861年。この年イギリス海軍であるアクテオン号が日本の勧告を無視して日本を測量することを始めます。もちろん日本からしたら日本の沿岸の特徴を知られるとまずいため、幕府の役人は「日本にはこんな地図があるためちょっとやめていただけませんか」とばかりに伊能忠敬の地図を渡したんだとか。その地図を見たイギリス人はびっくり仰天。日本人が作った地図の正確さと緻密さに驚いてこの地図の写しをもらう代わりに直ちに測量を中止。

こうして次第に伊能忠敬の優秀さが幕府内にも認識されるようになったのです。

次のページを読む
1 2 3
Share: