室町時代戦国時代日本の歴史

これほどドラマチックな姉妹は他にいない!浅井三姉妹それぞれが歩んだ波乱の生涯

息子・秀頼を守るためだけに生き、滅ぶ

慶長3(1598)年に秀吉が亡くなると、茶々は秀頼の後見人として絶大な権力をふるうようになっていきました。とにかく彼女は秀頼を守ることに全力を尽くしますが、やがて天下人の椅子をターゲットに定めた徳川家康とは対立するようになっていきます。

気丈な女性で秀頼の母親であるとはいえ、茶々はやはり戦も政治もプロではない、ただの女性です。老練な家康の前には、太刀打ちできるはずもありませんでした。

慶長19(1614)年の大坂冬の陣では、砲弾の命中におびえた茶々により、諸将の反対が押し切られて講和を結ぶこととなり、これで堀を埋められた大坂城は、攻め滅ぼされるのを待つだけとなってしまいます。

そして翌年の大坂夏の陣ですが、茶々は最後まで秀頼の出陣を許しませんでした。事態打開のための最後の策を、茶々は自ら封じてしまい、秀頼と共に大坂城で自害して果てたのです。

茶々は自分勝手な女性だったのか?

こうしたことから、周りの見えない女性と認識されがちな茶々。しかし、そもそも武家の女性に高度な政治や軍事の視野を求める方が酷というものです。息子・秀頼への溺愛ぶりは、幼くして両親を失い、さびしい思いをした自分のような目に遭わせたくはないという一心からだったのではないかと思います。

彼女には、女性として、母としての優しさが十分すぎるほど備わっていました。

妹の江に3度目の結婚が決まった際には、彼女が2番目の夫との間に産んだ完子(さだこ)を引き取り、実の子同様に大事に育てたのです。完子が嫁ぐ手筈をすべて整え、立派な輿入れを行ったのも、茶々でした。

自分にとって大事な存在を全力で守り、愛し抜いたのが、茶々という女性だったのだと思います。

姉と妹の行く末を見届けた二女・初

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浅井三姉妹の二女であるは、三人の中では比較的起伏の少ない人生を歩みました。しかし実子に恵まれず、悲しい思いをしたこともあったようですよ。とはいえ、嫁ぎ先の京極家に尽くし、夫の死後に出家してからは、中立的な立場として豊臣家と徳川家との間を取り持つ使者となりました。三姉妹の中で最も長く生きた彼女の生涯を見ていきましょう。

京極高次の正室となる

母・お市と死に別れた後、初は、天正15(1587)年にいとこに当たる京極高次(きょうごくたかつぐ)の正室となりました。京極家は浅井家にとって主筋であり、名門の家柄だったのですが、当時は没落していたそうです。

ただ、初が高次に嫁ぎ、高次の妹である竜子(たつこ)が秀吉の側室となってからは、徐々に領地を増やし、家が再興されました。このことから、高次は、妻や妹の七光り的な恩恵を蒙ったのだとして「蛍大名」と揶揄されることもあったそうですよ。

初は高次との間に子供ができず、側室が生んだ子を養子にして育てるなど、正室としての務めを立派に果たし、夫に尽くす日々を送りました。

姉の家と妹の家との間で奔走

関ヶ原の戦いでは、夫・高次は当初西軍に属しましたが、すぐに東軍に内通し、居城・大津城(おおつじょう/滋賀県大津市)で西軍相手に奮戦し、戦後は若狭小浜(福井県小浜市付近)に8万5千石の領地を与えられました。初と結婚したころは1万石に満たない領地しか持っていなかったのですから、大出世です。

その後、慶長14(1609)年に高次が亡くなると、初は出家して常高院(じょうこういん)と号します。この頃には姉・茶々の豊臣家と、妹・江の嫁ぎ先である徳川家との対立が表面化しており、初はどちらにもパイプのある人物として、交渉の使者となり奔走する日々を送りました。

しかし、豊臣家の滅亡を止めることはできず、姉の死を間近にすることとなります。妹・江も先に亡くした初は、三姉妹の中で最後にこの世を去りました。寛永10(1633)年、64歳でした。

両親と姉妹すべての死を見送った初ですが、夫の京極家を再び盛り立て、時に夫の尻を叩き、武家の妻としてかくあるべきといった姿を残しました。とても立派な人生だったと思います。

三度の結婚でようやく幸せをつかんだ末の妹・江

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長姉・茶々並みかそれ以上の波乱万丈の人生を歩んだのが、浅井三姉妹の末っ子・です。豊臣秀吉の指示のもと、結婚と離婚を繰り返させられた彼女は、三度目の結婚でようやく平和な生活を手に入れました。実は現代にまでその血筋が続く彼女は、どんな人生を送ったのでしょうか。

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