室町時代戦国時代日本の歴史

7歳で女城主に!?最後まで自分らしさを貫いた男勝りの姫君・立花誾千代

関ヶ原の戦いでの明暗:夫の改易

image by PIXTA / 37909266

秀吉のもとで活躍した夫・宗茂は、関ヶ原の戦いでは西軍に属しました。しかし西軍の敗北により、宗茂は改易となり、浪人の身分にまで落ちぶれてしまうこととなります。一方、誾千代はその時どうしていたのでしょうか。別居していたとはいえ、2人の間は完全に冷え切っていたわけではなかったようですよ。では、誾千代の人生の終盤を見ていきましょう。

関ヶ原の戦いで敗軍の将となった夫

慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いにおいて、宗茂は西軍に参加しました。しかし前哨戦に参加していたため、本戦には間に合わず、そのまま西軍は敗北してしまったのです。

やむなく柳川へと戻ってきた宗茂を出迎えたのは、別居していたはずの誾千代でした。彼女は家臣を引き連れて、敗軍の将となった夫を迎え入れたのです。こうした様子を見ると、2人が完全な不仲ではなかったような気がしますよね。

しかし、宗茂は西軍に属したということで、改易という厳しい処分が下されてしまいました。改易とは、領地をすべて没収されてしまうこと。つまり、宗茂は家臣を養うこともできない、一介の浪人となってしまったのでした。

誾千代の武勇伝

関ヶ原の戦いが起きていたとき、九州においても、戦国大名が東軍と西軍に分かれて戦っていました。西軍に属した立花氏の領地には、東軍となった加藤清正(かとうきよまさ)が攻め込んできます。

しかし、清正の軍勢が誾千代の屋敷に迫ると、「あのあたりは立花夫人(誾千代)の御座所です。人々はみな立花家を支持していますし、兵が迫ればきっと襲ってきます」と清正は進言されます。それは困ると兵を迂回させたということですが、この時、誾千代は自ら武装して出陣し、清正の軍勢を威嚇して近づけようとしなかったとも伝わっているんですよ。

かつて宗茂が戦で城を空けていた時には、侍女を訓練して守らせていたとも言われている誾千代ですから、この逸話ももしかしたら本当かも…と思わされますね。

秀吉すらはねつけた気の強さ

勇壮と伝わる誾千代には、逸話の域を出ませんが、男勝りなエピソードがたくさん伝わっています。

秀吉が生きていたころ、文禄・慶長の役の折には朝鮮半島に攻め込んだことがありました。この時、宗茂は大陸に渡っていたため、肥前・名護屋城(なごやじょう/佐賀県唐津市)に腰を据えた秀吉は、誾千代を呼び寄せてなんと手籠めにしてしまおうと画策したのです。さすが色好み。

しかし、誾千代はあくまで誾千代。名護屋城にやってきた彼女は、侍女に鉄砲を持たせ、自分も武装していたというのです。

これには、さすがの秀吉も唖然とし、手を出すことを諦めたそうですよ。

34歳の若さで死去

改易された夫・宗茂は京都で浪人となりましたが、誾千代は加藤清正の保護を受けて暮らすようになり、肥後(熊本県)に移りました。しかし、ほどなくして病に倒れ、慶長7(1602)年、34歳の若さで亡くなりました。

一方、宗茂は武将としての器量を高く評価され、やがて大名復帰を果たします。そして柳川へと返り咲き、寺を建てて誾千代の菩提を弔いました。

誾千代の死去により、名将・立花道雪の血統は絶えることとなりましたが、柳川藩主としての立花氏は、明治維新まで続くことになります。

自分らしさを貫いた誾千代

image by PIXTA / 44043898

別居はしていても、完全に心が離れたわけではなかった誾千代と宗茂。残されている逸話には、2人の間に愛情が通っていたのではないかと思わされる部分が少なくありません。少々不思議な夫婦の形でしたが、誾千代は自分の思う通りに生きたのかもしれませんね。女性として生まれたためにこのような人生を歩むこととなりましたが、誾千代は自分らしさを貫いた女性だったのではないかと思います。

1 2
Share: