日本の歴史昭和

太平洋戦争の天王山「ミッドウェー海戦」背景・経緯・その後をわかりやすくまとめた

ミッドウェー島攻防戦の幕開け

1942年5月27日、南雲機動部隊は広島湾を出港、厳重な無線封鎖を行ったうえでミッドウェー島を目指します。2日後には山本五十六司令長官率いる戦艦大和などの主力艦隊も出撃しました。

6月3日、南雲機動部隊の後方にいた大和は、アメリカ軍の通信状況などからアメリカ軍空母がミッドウェー近海にいる可能性が高いと判断します。しかし、この情報を南雲機動部隊には伝えませんでした。通信をすることで、南雲艦隊の位置をアメリカ軍に知られることを恐れたからです。

6月5日、南雲機動部隊の艦載機がミッドウェー島攻撃を開始しましたが、思ったほど打撃を与えることができません。基地航空隊も健在で、南雲忠一は再度の空襲を命じます。

アメリカ軍機動部隊の攻撃により南雲艦隊潰滅

南雲機動部隊の艦載機がミッドウェー島を攻撃していたころ、付近に展開していたアメリカ機動部隊はエンタープライズホーネットヨークタウンの空母3隻を主力とする部隊でした。南雲機動部隊の位置をつかんだアメリカ軍機動部隊は直ちに艦載機を出撃させます。

アメリカ軍空母が近くにいると知った南雲艦隊の山口多聞少将は、ミッドウェー攻撃の艦載機を爆弾装備のままでいいからアメリカ機動部隊に差し向けるべきだと進言。しかし、南雲艦隊の司令部はミッドウェーに出撃した部隊の収容を優先するとし、山口少将の進言を却下しました。

日本軍の出撃が遅れる中、アメリカ機動部隊の艦載機が次々と南雲機動部隊を攻撃します。この結果、赤城・加賀・蒼龍の3空母が撃沈されてしまいました。3空母から少し離れていた飛龍はヨークタウンを撃沈したものの、アメリカ軍の反撃で撃沈されました。連戦連勝を誇った南雲機動部隊はミッドウェー沖で壊滅してしまいます。

ミッドウェー海戦敗北の影響

image by PIXTA / 26485338

ミッドウェー海戦での敗北は、日本軍の快進撃の停止を意味するものでした。守勢に回った連合艦隊は、各地でアメリカ軍の反撃に遭います。ソロモン海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦でことごとくアメリカ海軍に敗北した連合艦隊は後退を重ねました。1944年のサイパン島陥落により、アメリカ軍は日本本土を恒常的に空襲する拠点を得ます。こうして、日本は敗北へと追い込まれていきました。

ミッドウェーでの敗北後、連合艦隊は守勢に回った

ミッドウェー海戦で勝利したアメリカ軍はオーストラリア軍と連携し、ソロモン諸島のガダルカナル島を攻撃しました。連合艦隊は3度にわたってアメリカ海軍とソロモン沖海戦を戦いましたが、最終的には敗北。日本軍は大きな犠牲を出してガダルカナル島から撤退します。

1944年6月のマリアナ沖海戦は空母艦隊同士の海戦でしたが、連合艦隊は一方的な敗北を喫し、3隻の空母と400機近くの艦載機を失いました。さらに、1944年10月のレイテ沖海戦では参加した航空母艦4隻の全てと3隻の戦艦6隻の重巡洋艦などを失う大敗北を喫してしまいます。

こうして、連合艦隊はミッドウェー海戦以後の重要な戦い全てで敗北を喫し、太平洋の制海権をアメリカに奪われてしまいました。

サイパン島が陥落し、日本本土が空襲にさらされた

1943年に入ると、アメリカ軍は日本軍によって重要で、かつ、防衛体制が整っていない島々をピンポイントで狙う作戦を実行します。ソロモン諸島、ギルバート諸島、マーシャル諸島を制したアメリカ軍は中部太平洋のマリアナ諸島に軍を進めました。

特に、北マリアナにあるサイパン島は重要な攻撃目標でした。なぜなら、サイパン島からなら、アメリカ軍の長距離爆撃機で日本本土を空爆することができるからです。日本側もサイパン島の重要性は認識しており、東条内閣はサイパン島を絶対国防圏として死守する構えを見せました。

アメリカ軍は大兵力を投入してサイパン島を攻撃。救援の日本艦隊をマリアナ沖海戦で撃破しました。救援の見込みが立たれたサイパン島守備隊は玉砕します。奇しくも、その時のサイパン島の司令官はミッドウェーで敗れた南雲忠一でした。

準備不足のまま挑んだミッドウェー海戦の敗北は、太平洋戦争の流れを変えた

image by PIXTA / 6737272

真珠湾攻撃と異なり、準備不足の中実施されたミッドウェー海戦。もともと、アメリカに国力で劣る日本は戦術的な勝利を重ねることでアメリカを疲弊させ、講和に持ち込むしか選択肢がありませんでした。ミッドウェー海戦で日本がアメリカに勝っていた機動部隊を失ったことで、日本は戦術レベルでもアメリカ軍に勝利できなくなります。国力の差を戦術レベルの勝利だけで覆すのがいかに困難かを表していますね。

1 2
Share: