アメリカ軍による強引なイラク戦争の開戦
アメリカ・イギリスなどは、イラクが大量破壊兵器を保持しているとして直ちにイラク攻撃に踏み切るべきだと主張します。一方、フランス・ドイツ・ロシア・中国などはイラク攻撃に反対の姿勢を示し、国際連合による査察を継続すべきだと主張しました。議論は平行線をたどり、アメリカ・イギリスは国際連合の決議なしでのイラク攻撃に踏み切ります。
2003年3月19日、アメリカはイラクとアルカーイダの関係が疑われることやイラク国内の人権抑圧などを理由にフセイン大統領と一族に国外退去を要求。フセイン大統領が要求に応じなかったため、空爆を開始しました。
アメリカが強引に開戦に踏み切った理由は、ラムズフェルド国防長官やボルトン国務次官などブッシュ政権内の強硬派が開戦を強く主張したからだといわれています。イラク軍は当初の予想よりも善戦しますが、圧倒的戦力差の前に敗北。アメリカ軍は4月9日には首都バグダードを制圧、フセイン政権は崩壊しました。
イラク戦争の結果と戦争がもたらした影響
正規軍同士によるイラク戦争は、比較的短期間で終結しました。しかし、開戦理由とされた大量破壊兵器はみつからず、アメリカ・イギリス占領下のイラク国内治安も極度に悪化します。イラクの混乱は2011年のアメリカ軍撤退後も続き、IS(イスラミックステート)と自称する勢力がイラク北部からシリアにかけて実効支配に置く事態が発生しました。イラク戦争終結後のイラク周辺地域についてまとめます。
サダム=フセインの裁判と死刑執行
アメリカ軍が首都バグダードを制圧した時、フセインは既にバグダードを脱出していました。フセインは半年以上にわたってアメリカ軍の追跡を振り切り、逃亡を継続します。
2003年12月13日、フセインがイラク中部のダウルに潜伏しているとの情報を受けたアメリカ軍がフセイン拘束作戦を実行。フセインが民家の穴に隠れていたところを発見されアメリカ軍に発見され拘束されました。
拘束後、フセインはアメリカのブッシュ政権が本気でイラクを攻撃してくると考えていなかったと述懐。対アメリカ戦略の読み違いがあったことが明らかになります。
フセインに対する裁判は2005年に始まりました。裁判ではイラン=イラク戦争中のシーア派住民殺害やクルド人に対する化学兵器の使用などが争われましたが、裁判所はシーア派住民殺害の件で死刑判決を下します。2006年12月26日、フセインによる控訴は棄却され、4日後の12月30日に死刑が執行されました。
戦後のイラク情勢
2003年5月1日、アメリカ・イギリスを主体とする連合国暫定当局がイラクの統治を担いました。しかし、連合国暫定当局による統治はうまくいきません。最大の理由は、兵力の少なさです。戦争によって破壊されたインフラの復興や食料配給、治安の確保など山積する課題に対処するには兵力不足でした。
このため、各地で連合国暫定当局に対する反発が高まります。また、旧イラク軍の一部はレジスタンス活動を実行し、アメリカ・イギリス軍に消耗を強いました。
2006年、イラクでマーリキーが首相に就任し、正式なイラク政府が発足します。2010年、バラク=オバマ大統領は戦闘の終結を宣言。2011年12月にアメリカ軍は完全撤退しました。しかし、イラク政府の統治能力は弱く、IS(イスラミックステート)の台頭を招きます。
イラク北部からシリアにかけてIS(イスラミックステート)の支配地域が生まれた
イラク政府の弱体化やシリアの内戦に乗じて勢力を拡大したのはISでした。ISの活動が活発化するのは2013年頃からです。2013年4月、シリアのアレッポ郊外にあるシリア空軍の基地をISが占拠。2014年には本格的にイラク西部に侵攻し、モスルなどを占領しました。
こうしたISの動きに対し、アメリカなどは空爆を実施しましたが勢力拡大を抑えきれません。ISはシリア北部のラッカを首都とする国家の樹立を宣言しました。
2017年になると、シリア・イラクの両政府が体勢を立て直し、ISから支配地域を奪還し始めます。以降、ISの支配地域は縮小をつづけ、ラッカやモスルなどの大都市もシリア・イラク両政府に奪還されました。
しかし、国や組織の形はなくなってもISの構成員は各地でテロ攻撃を実施し、今なお脅威は継続しています。アメリカによるフセイン政権打倒は、イラクに平和をもたらしたわけではありませんでした。
中東での紛争は対岸の火事ではない
日本人にとって、イラクなど中東での争いは遠い異国の出来事のように感じるかもしれないですね。しかし、対岸の火事と楽観視することはできません。日本もISを攻撃するアメリカなどを支持したわけですから、いつ、日本がテロの標的となってもおかしくないからです。昔に比べ、世界は緊密につながっています。もはや、海によって外国から隔てられているから日本は安全とは言えません。