革命の勃発
1978年1月、国王によって国外追放を受けたホメイニ師はフランスパリへと亡命するようになります。その頃、イラン国内ではホメイニ師を侮辱した記事を巡って暴動が発生。この暴動はすぐさま鎮圧されましたが、その暴動の犠牲者を追悼する会がイスラム教を信仰している人も巻き込むようになり暴動はイラン全土に拡大。
国王はなんとかしてこの暴動を鎮圧しようと企みましたが、軍がデモ行進している人に発砲する事件が起こるとより一層暴動は激しさを増していき、収拾がつかなくなった国王パフレヴィー2世は国外から逃亡。パフレヴィー朝は崩壊したのです。
これを受けてパリにいたホメイニ師はイランに戻り国民の熱狂的な支持のもとで4月1日、国民投票を経てイスラム法の下で政治を行うイスラム共和国の樹立を宣言。イスラム法で国民を治める方式がついに実現したのでした。
この革命のポイント
この革命の特筆するべき点は冷戦の時代にも関わらずアメリカやソ連の援助を受けておらず、純粋な民衆の支持によって革命が達成されたことにあると思います。この頃世界ではアメリカやソ連のどちらの陣営にも属さない第三世界の動向が注目されるようになった時期でもありました。
イラン革命はそんな第三世界の台頭を明確に世界に知らしめた重要な革命でもあったのです。
また、この革命のイデオロギーとなったのがこれまでの社会主義とか共和政を目指す革命ではなく、イスラム教という宗教だった事もこのイラン革命の特徴とも言えますね。
イラン革命の影響とアメリカとの対立
イラン革命はアメリカの援助を受けていたパフラヴィー朝を打倒したこともあってアメリカから敵視を受けるようになります。
そんな中1979年に起こったのがアメリカ大使館占拠事件でした。
なんでイランがこんなことをしでかしたのかというとイラン革命によって国外へ退去したパフラヴィー2世が最終的にアメリカに亡命したことがありました。この当時のアメリカ大統領であるジミーカーターはイランとの関係悪化を懸念してこの亡命を受け入れないつもりでいましたが、最終的には亡命を承認。これに激怒したイラン国民はアメリカの大使館を占拠する暴挙に出たのです。
この結果イランとアメリカの関係は一気に悪化。1980年にはアメリカはイランとの国交を断絶してさらに経済的制裁をかけるようにまでになります。
アフガニスタン戦争とイラン・イラク戦争への波及
このイラン革命の波及を一番恐れていたのが冷戦の主役アメリカとソ連でした。アメリカとしたらこれ以上親米の政権が打倒されるのはなんとしてでも避けたいですし、ソ連からしても社会主義国家は宗教を弾圧する傾向がありますので宗教を中心とした国家をなるべく排除したいと思っていたでしょう。
この大使館占拠事件が勃発したのち、ソ連はイランとほど近いアフガニスタンに侵攻。アフガニスタンの社会主義政党を保護するという名目のもと1989年まで戦争が行われるようになります。
また、アメリカもこの頃はまだ仲が良かったイラクのフセイン大統領に援助を行いイランに侵攻させイラン・イラク戦争を引き起こしました。
しかし、イランはこのような超大国の圧力を受けながらもなんとか政権を維持。革命から40年経った今でもイスラム教による政治が行われ続けているのです。
コラム2.イラン革命と女性の立場
イラン革命はイスラム教を軸とした革命なんですが、そうなりますと女性の立場が危うくなるとは思いませんか?例えばサウジアラビアの場合なんかは女性の権利が守られていないと度々国際連合から非難を浴びていますが、イランの場合だとちょっと違うんだとか。
ホメイニ師は「イラン革命は女性の協力がなければ達成することができなかった」としており、女性の立場を向上する政策を次々と打ち立てていきます。その代表例とも言えるのが女性に対する教育でした。
イランは農村地帯でも女性の教育を奨励するようになり、その甲斐あってか革命以前の生徒比率である31%から48%へと引き上げることに成功し、さらに公立大学の合格者の女性の比率は62%と男性よりも上回っているんだとか。
さらに、イスラム教特有の女性の隔離もあり、女性の社会進出も推進され、女性に対する年金制度や社会保障、出産のための育児休暇などが充実しており下手をすれば日本よりも女性のことを大切していることがわかります。
たしかに、イラン革命によってある程度の制約はできたかと思いますが、その一方で女性の社会的地位が向上したこともまた事実なのです。
イラン革命と第二次石油危機
イラン革命の衝撃を受けたのはアメリカだけではありません。イランの石油を頼りにしてきた日本やヨーロッパもこの革命の煽りを受けることになるのです。
コラム1にも書いた通り、日本はイランがイギリスから制裁を受けているにもかかわらず石油を輸入し続けたこともあり、多くの石油をイランから輸入していました。
しかし、イラン革命によって石油事業が国有化されることになると自国の資源は自国で守るという意識が芽生え始め石油の値段を引き上げた上に輸出する量を大幅に減らすなどの措置をとりました。
この結果イラン以外の中東の国までが石油の輸出を渋るようになり、最終的には世界規模の石油危機が到来。ヨーロッパなどではこの結果石油依存を見直す決起となりました。
しかし、日本は第一次石油危機でかなり懲りていたため省エネ化が進んでおりあまり混乱が起こることはありませんでした。
しかし、世界の政府首脳たちは1979年の東京サミットによって石油の節約を余儀なくされ、先進国の経済成長の停滞を招くことになるのです。