【家紋】橘を家紋とする家系ってどこだろう
橘紋の種類は色々あります
橘紋というと、丸に橘の紋が頭に浮かぶと思います。これは戦国から続いて幕末の「桜田門外の変」で亡くなった有名な「井伊直弼」の紋だからでしょう。しかし、橘紋は色々とデザインが施されていて色々なパターンが現在はありますよ。
〇飾りのない橘・橘家の基本デザイン
〇丸に橘・橘氏家・藤原家・源氏・平氏など(橘氏以外の氏族)が使用していたもの
〇彦根橘・丸に橘によく似ていますが、彦根藩の井伊家が使用していたもの
〇井筒に橘・日蓮宗の紋
だいたいこれが有名ですが、家の名前がついた黒田氏の「黒田橘」・久世氏の「久世橘」・薬師寺氏の「薬師寺橘」・葉が縁になった「橘くずし」・蝶のような形に変形した「変わり橘蝶」・花弁が菱形になって縁のようになった「橘菱」・「八角に橘」や、他の植物とあわせた「橘に藤巴」・「菊座橘」や、竜胆のような形にデザインした「三つ竜胆橘」・白黒反転している「中陰橘 」・「光琳枝橘 」橘が向かい合った「むかい橘」など複数の橘をデザインしたものなど50~72種の橘の家紋がありますね。
橘紋で有名な家系ってどこ?
上記に書いたように、橘紋は橘家・橘家分家など色々な家が家紋に使っています。そこで、橘紋を使っている有名な家や神社やお寺などを紹介していきましょう。
橘紋といえば橘氏
橘氏というのは、飛鳥時代の末、女帝だった元明天皇から異父姉妹という説もある「県犬養三千代」に「天武天皇の頃からよく仕えてくれた」と橘を浮かべた酒杯とともに「これをもって氏とせよ」と言われて「橘宿禰(たちばなのすくね)」という氏姓を下賜されたといいます。本当だったら彼女一代だったはずの姓ですが、皇族だった息子の葛城王が「橘諸兄」と改名したために子孫は橘氏を名乗ることになりました。しかし平安時代になると、藤原氏との権力争いにやぶれ没落していきます。
長いですが本当は「橘」が姓ではなく「橘宿禰」というところまでが姓です。その後に「橘朝臣」の姓を賜与されて、平安時代には、橘氏の多くは「橘朝臣」を称することになったのですね。余談ですが今回、百人一首などで見る名前の「〇〇朝臣誰それ」というのは、朝臣までが姓だと初めて知りました。
子孫には「橘逸勢」という遣唐使して中国へ留学したものの政権争いに巻き込まれて流罪にされた人がいます。文人で嵯峨天皇、空海と並び【三筆】といわれたそうですよ。「橘道貞」という藤原道真の側近で「和泉式部」と結婚している人や、兵庫県姫路市にある、武蔵坊弁慶や宮本武蔵などで有名な「書写山圓教寺」という「西の比叡山」と称される有名なお寺を創建した「性空」がいますね。後世には古い家柄なこともあり、子孫と称している人は多くて「楠木正成」などもそうですよ。
一番有名な井伊氏
橘紋で一番有名な井伊氏は、実は橘氏とは全く関係ありません。公式には「藤原道長」の「藤原北家」の末裔とされていますが(藤原氏も橘紋を好んで使っていたということもありますが)初代の「井伊共保」は捨て子だったというものです。
井伊氏を題材にした、大河ドラマ『おんな城主 直虎』では「龍宮小僧」といっていましたが、「遠江国(現・静岡県)井伊谷」の八幡宮の神主が井戸の傍らに捨て子を発見して育てたといいますね。7歳の時に神童と呼ばれていたのを、遠江国の国司をつとめていた「三国共資」の養子となります。捨てられたいた場所の「井伊谷(いいのや)」に城を建てて「井伊氏」を名乗ったという伝説ですね。その井戸の横に橘が植わっていたために、井伊氏の家紋は「橘」と「井桁」となったのですよ。
井伊氏は500年間その土地の豪族として栄えましたが、鎌倉幕府を倒幕した「後醍醐天皇」の皇子「「宗良親王」が、後醍醐天皇と袂を分かって「足利尊氏」がたてた「室町幕府」に追われて伊勢に行く途中に座礁していたところを保護して隠れ里にかくまいました。そのために室町幕府に追討されて、守護だった今川氏の支配下となってしまったのですよ。
戦国時代になると今川氏は井伊氏を滅亡させようと画策します。大河ドラマの『おんな城主 直虎』はそこから始まりますね。その中から生き残った「井伊直政」は「井伊の赤揃え」という一大軍勢を作り、大将は軍の後ろにいるものですが、先頭切って斬り込み家来が追いつけないほどの凄まじい武功をたてつづけますよ。そのため江戸幕府西の砦とし、て石田三成の所領だった佐和山と向かいの彦根を拝領して彦根城を創ります。「関ヶ原の戦い」で重傷を負いながら養生もしないまま江戸幕府の基礎を作り上げて亡くなってしまいますが、幕末まで井伊氏は大老も6人出すほどの名家となったのでした。
井伊氏が凄いのは、この長い歴史の中で、現在の養子になられた方までずっと当主の血統が続いていたことですね。もっと井伊家のことを詳しく知りたい方は、拙文の「作った頃のままの姿が残っている-国宝・彦根城-の歴史と魅力」を読んでくださると嬉しいです。
武蔵七党の小野氏
平安時代の藤原氏の台頭から、権力を失って地方に下向して土着していく貴族たちが増えていきます。小野妹子から続く小野氏の一族もそのひとつです。小野氏も橘氏とは関係ありませんが、不老長寿や永遠という意味がある橘紋を使っていますね。同様に長野より西の本州・四国・九州など、みかんがとれるところの豪族は好んで使っているようですよ。
小野氏といえば冥府の番人ともいわれた「小野篁」や美人で有名な「小野小町」という有名な歌人がいますね。その小野篁から八代目の孫で「武蔵守孝泰」という人がいました。孝泰は東国に下向して「武蔵国多摩郡横山」に土着して、苗字のはじまりともいわれる東国武士団「武蔵七党」の「横山党」と「猪俣党」の祖となりました。
江戸時代に平賀源内も滞在したという埼玉県の猪俣という土地は今もありますが、現在は猪俣家はおらず、室町時代の「菊池征伐」に二階堂氏に従って大分から九州で土着した一族、上杉謙信に従って新潟や会津方面の東北で土着した一族、後北条氏に従って神奈川など関東に土着した一族が主流となります。
土佐の安芸氏
壬申の乱で土佐に流された蘇我赤兄の子孫といわれる「安芸氏」は、藤原氏だったとか橘氏だったとかいう説もあり本当のところはよくわかりませんが、本家は橘姓と称して橘紋を使用していますね。安芸氏は戦国時代に、四国の覇者「長宗我部氏」に敗れて滅亡しました。長宗我部氏は、このめでたい橘紋を一族や多くの家臣に与えたために、土佐国をはじめとした四国が一番、橘紋を家紋に使う家が多いそうですよ。