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アジア初の共和制国家誕生のきっかけ「辛亥革命」孫文が起こした革命をわかりやすく解説

中国国民党の設立と第二革命

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袁世凱に権力が集中するという共和制国家としてはあってはならない時代となってしまいましたが、孫文だってこの状況に対して強い危機感を覚えていました。孫文自身は元々袁世凱と協力して政治をおこなえば良いと考えていましたが、こうなったら話は別です。孫文は革命を再び起こすために南京にて中国国民党を設立。即急に議会を開設して袁世凱に対抗しようと画策します。しかし、袁世凱はその動きをあっさり察知してしまい、自身の権力を脅かしかねない国民党を潰しにかかり、設立の中心的な役割を果たしていた宋教仁を暗殺。国民党は無理やり解散に追い込まれてしまいました。

こんなことされてしまったら流石の孫文も黙ってはいません。孫文は革命の協力者である黄興共に第二革命を起こして、袁世凱を打倒しようとついに動き出します。

しかし、たかが革命家が軍人である袁世凱に勝てるはずもありません。この第二革命はあっさりと鎮圧されてしまい、孫文は日本に亡命。かわりに袁世凱が大総統の地位に君臨する結果を招いてしまいました。

袁世凱の皇帝就任

こうして革命を潰し、完璧な権力を手に入れた袁世凱。袁世凱が次に目指したものは皇帝の座でした。彼は中華民国の第2代臨時大総統に就任すると1915年に中華帝国を建国。自ら洪憲帝と名乗り、かつての時代に逆戻りするというなんともあっけない形で革命は終結しました。

しかし、せっかく共和制となったのにあっさりと帝国に逆戻りしたのを黙ってみることはありませんでした。

袁世凱が皇帝に就任した直後、華南地方にて袁世凱の皇帝就任に反対する反乱が発生。いわゆる護国戦争が始まり各省は勝手に独立宣言を発布して中華帝国から離脱しました。

袁世凱は焦ります。このまま護国戦争に負けてしまえば権力どころか自らの命も危ないですからね。そのため袁世凱は皇帝になるのを取り消して中華帝国を廃止。袁世凱は失意のうちに死去してしまい革命は新たなるステージに立つことになるのでした。

護法運動と軍閥の台頭

袁世凱の死後、日本に亡命していた孫文は中国に帰国。広州にて再び新政府を樹立する動きを見せ始めます。

しかし、まだこの当時には北京には袁世凱の影響力が強い北洋政府が存在しており、さらには護法戦争によって独立したままの地域も存在していました。そこで孫文は再び統一しようと護法運動を開始。広州から再び中華統一を果たそうとしたのですが、これはあっけなく失敗に終わり、中国では軍閥という軍人が影響力を強めて中央政府に従わないグループが続々と作られるようになります。

革命未だ成らず

こうして護法運動も失敗に終わった孫文。孫文はなんとか中国を統一しようと1923年に当時成立したばかりであったソビエト連邦の支持を取り付けて同時新興勢力であった共産党との連携を強めていくこととなりました。

さらに1924年には中国共産党と第一次国共合作を成立させて軍閥との対立関係をどんどん深めていきます。孫文は中国を統一することを諦めず、北方へと侵攻しようとしますが、この頃になると孫文はガンに侵され始め、どんどん元気を失ってしましまい、最後には『革命未だ成らず』という言葉を残して1925年に死去してしまいました。

辛亥革命を起こした孫文はその革命の達成を見ることなくこの世を去ったのです。

革命のその後

孫文の死後、中華民国では新たに蒋介石が台頭することとなり、さらに汪兆銘を始め中国国民党のメンバーは軍閥に対抗するべく10万人の国民革命軍を組織し始めます。

こうしてようやく軍閥を倒すだけの兵隊を手に入れた中華民国は北洋政府を始め各地の軍閥を倒すために蒋介石は孫文の意志を継いで1926年から北伐を開始。翌年には共産党とも決別して自立した国家を目指し始めました。

こうして始まった北伐は列強の支援もあって順調に進んでいき、1928年には北京に入城。孫文以来の長年の悲願であった北洋政府の打倒に成功して中華民国は一応の体をなしたのでした。

中華民国はアジアの共和制に影響を与えた

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秦の時代からずっと続いてきた皇帝の時代はこの辛亥革命によって終わりを迎えることとなりました。その後中国は日本との戦争、軍閥との争い、そして中国共産党との国共内戦など様々な課題に直面することになるのですが、これまでアジアになかった共和制国家をなんだかんだで樹立したということは私は歴史上でも大きな意義があったことだったと思います。

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