幕末日本の歴史江戸時代

実業家と天文学者の二つの顔を持った偉人、伊能忠敬の生涯とは

幕府の北方探査と蝦夷地直轄

接近する外国の中で、幕府が最も警戒したのがロシアでした。ロシアの南下をはじめて警告したのは仙台藩の医師、工藤平助です。平助は松前や長崎の住民から聞き取り調査を実施。ロシアの南下に備えることや北方開発の必要性を著書『赤蝦夷風説考』で主張しました。

『赤蝦夷風説考』を献呈された田沼意次は蝦夷地を開拓し、ロシアの南下に備えようとします。1785年、田沼は最上徳内を千島列島の探査に行かせました。田沼が失脚し、政権を引き継いだ松平定信と彼に同調する老中たち(寛政の遺老)も北方探検を継続。近藤重蔵を最上徳内とともに千島に派遣しました。

これらの調査を踏まえ、幕府は東蝦夷地を松前藩からとりあげ直轄地としました。伊能忠敬が蝦夷地測量を実施することができた背景には、幕府が蝦夷地に対して強い関心を持っていたことがあるのです。

学者、伊能忠敬

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家業を隆盛に導いた忠敬は49歳の時に家督を長男に譲って隠居します。翌年、忠敬は江戸深川に移住し、幕府天文方の学者である高橋至時に弟子入りしました。高橋の下で天文学を修めた忠敬は地球の全周を知るための測量調査の機会を探ります。そのためには江戸と遠く離れた蝦夷地での測量が必要でした。立ち入りが制限されている蝦夷地に入るため高橋と伊能は地図作りを大義名分とします。

師、高橋至時

伊能忠敬の死である高橋至時(たかはしよしとき)は江戸後期の天文学者で、天体運航の観測や暦の編纂などを行う天文方に任命された人物です。至時は、暦学についての研究を重ね、それまでよりも精度の高い寛政暦への改暦を行いました。

至時は学問に対する熱心さで知られた人物でもあります。至時がある学者に弟子入りして研究に励んでいたころ、自宅が全焼する火事がありました。しかし、至時は自宅の全焼をものともせず、火事の翌日には研究を再開します。寛政暦完成後も至時は天文学の研究を継続しました。

忠敬は50歳のとき、19歳年下の至時に弟子入りします。至時は忠敬に天文学や暦学の知識を教えました。まさに、「五十の手習い」です。至時は忠敬の学問に真剣に向き合う姿勢に感銘を受け、忠敬を「推歩(すいほ)先生」とよびました。推歩とは天体の運行観測や暦の計算をするという意味の言葉です。至時が忠敬の研究熱心さに敬意を払っていたことがわかる呼び名ですね。

蝦夷地測量の許可

至時と忠敬は地球の全周がどのくらいかということに関心を持っていました。地球の全周がわかれば、より正確な暦を作り出せると考えていたからです。そのためには、緯度1度の長さを割り出せばよいと二人は考えました。

緯度1度の長さをはかるには、遠く離れた2地点間の距離を測る必要性があります。二人は江戸と蝦夷地、今の北海道までの距離がわかれば緯度1度の長さが判明すると考えました。しかし、当時の蝦夷地は許可なく旅することは許されません。そこで、至時はロシア船使節ラクスマンが根室に来航したことなどをあげて、蝦夷地の正確な地図を作成するべきだと幕府に訴えたのです。

この提案は北方警備に強い関心を持っていた幕府の許可を引き出しました。蝦夷地に加え、東日本全体での測量許可を得た伊能忠敬らは測量に乗り出します。このとき、幕府から与えられた資金はわずかで、多くの資金を忠敬が持ち出しました。

測量の開始

1800年、幕府の許可を得た忠敬は江戸を出発。陸路で蝦夷地を目指します。出発当時の忠敬は55歳。一般的には楽隠居しているはずの年齢です。忠敬一行は弟子3人、下男2人、人足3人、馬2頭でした。忠敬は一定の歩幅で複数人が歩き、その結果を平均することで距離を測ります。測量は複雑な海岸線でも行われ、悪天候でも構わず実行しました

閏4月19日に江戸を出発した一行は、1日40kmもの距離を測量しながら踏破します。5月11日には津軽半島北端の三厩(みんまや)まで到達しました。ここまでくれば、船に乗って目的地の蝦夷地にわたるだけ。ところが、悪天候によって何日か足止めされ、蝦夷地で測量を開始したのは5月29日のことでした。

忠敬一行は箱館(現在の函館市)から蝦夷地の太平洋沿岸を測量し、8月上旬には釧路に達します。そこから、再び測量しながら箱館に戻り、10月21日には江戸に帰着しました。江戸にもどった忠敬は測量データをもとに地図を作製。12月21に地図を幕府に提出しました。

伊能忠敬の死と大日本沿海輿地全図の完成

忠敬の蝦夷地図の成果は評判となり、合計10回の測量と地図作成が繰り返されました。忠敬が東海地方や北陸地方を測量した第四次調査から戻った直後、高橋至時は体調を崩します。あまりに熱心に研究に打ち込んだせいでした。至時は1804年に研究半ばでこの世を去ります。

1804年、そのときまでに出来上がっていた東日本分の地図を11代将軍徳川家斉が見ました。その時、幕府の指導部は忠敬の地図の正確さを認めたのか、忠敬に給与を与える決定を下します。さらに幕府は忠敬に西日本の測量を命じました。

第5次測量以降、測量事業は幕府の正式な事業とされます。十度目の江戸府内測量が終わり、地図を作成していた時に病が忠敬を襲いました。病床に伏しがちになった忠敬が息を引き取ったのは1818年のことです。

忠敬が死んだとき、地図は未完成でした。そのため、高橋至時の子の高橋景保らが中心となり地図を作成します。こうして1821年に完成した一連の日本全国地図は『大日本沿海輿地全図』と名付けられました。

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