実際は西軍諸将はどこに布陣していたか?
では、西軍諸将がどこに布陣していたか?現在は東海道本線が通り、西へ向かう際に、山に挟まれた隘路にあたる不破の関近辺ではないかといわれています。山中という地名のある場所ですね。地図は下記の通り。
たしかに大軍を迎え撃つにはたやすく、何段にも分厚く陣を敷くにはふさわしい場所だといえるでしょう。当時、合戦に参加していた吉川広家の書状には下記のような記述があります。
「山中のことは即時に乗り崩され、ことごとく討ち果たされた」
「家康(方の軍勢)がすぐに山中へ押し寄せて合戦に及び、即時に討ち果たした」
引用元 「吉川広家自筆書状案」より
当時、東軍の福島隊に参加していた尾張衆の生駒利豊の書状にも、戦闘開始からすぐに追撃戦へ移ったという記述があるのです。このことからも、通説にあるように4~6時間も戦っていたというわけではなく、ものの2時間程度で勝敗は決していたのではないでしょうか。
また、いの一番に壊滅した大谷隊は、西軍諸将に比べて前方へ突出しすぎていて(関ヶ原エリアにいたから)、真っ先に狙われ、背後を小早川隊に突かれる形になったのでしょう。小早川秀秋の書状だけには唯一、「この度の関ヶ原表での比類なき働き」とありますから、関ヶ原エリアで孤立するように布陣した大谷隊を前後から袋叩きにしたということ。大谷隊の壊滅を見ていた西軍諸将も動揺したはずです。だから東軍に攻めかかられた瞬間に及び腰になってしまったということなのでしょう。
新解釈を基にした合戦の様子をシュミレート
霧の立ち込めた関ヶ原。夜が明けると、いくぶん東のほうへ陣を敷いてしまったことに大谷吉継は気付きます。しかし、背後には同じ西軍の小早川隊1万5千が控え、万一の際には後詰のうえ救援してくれるだろうという期待も。
まずは前哨戦として、大谷隊と東軍がぶつかり一進一退の攻防が繰り広げられることに。しかし、背後の丘にいた小早川隊が突如裏切り、無防備だった大谷隊の背後から襲い掛かってきました。大谷隊は腹背に敵を受けて壊滅。それを見た徳川家康は「好機!」とばかりに山中に布陣していた西軍へ向けて、福島や黒田などの部隊を先頭に押し立てて攻めかかってきました。
大谷隊の壊滅を間近で見た西軍は浮足立ち、まずは石田隊が崩されることに。続いてその敗勢は宇喜多隊にも波及し、島津隊の隣を雪崩をうって敗走していきました。それでも陣を守り、頑強に戦っていた島津隊は結局戦場に取り残されます。そこで意を決して敵中突破を果たし、大きな犠牲を払いながらも逃げることに成功しました。
隠された関ヶ原の真実
家康の天下取りの大きなキッカケとなった関ヶ原合戦。しかし、なぜか後世になってその歴史の真実は書き換えられています。それはなぜか?江戸時代になって家康は神格化され、幕府にとって都合の悪いことは公にしたくなかったからでしょう。関ヶ原合戦がいともあっけなく終わってしまったのでは、天下分け目という価値も低いですし、宣伝効果も少ない。しかも一番の戦功を挙げたのが小早川秀秋だったという事実も、徳川にとってはあまりよろしくなかったわけで。「恥知らずの裏切り者」として仕立てることで、より徳川の立ち位置を引き上げようとしたのでしょうね。