安土桃山時代日本の歴史

天下分け目の合戦の場所はどこ?本当に「関ヶ原」?通説を覆す新解釈を解説

文献や史料にみる矛盾点

そもそも関ヶ原合戦の主戦場とされる関ヶ原町にある「関ヶ原」という地名は、一次史料(当時の日記や当事者たちが記述したもの)には登場しておらず、後世になって初めて現れる地名なのです。戦いの当事者だった武将たちの書状や手紙にもまったく出てこないですし、唯一、小早川秀秋の書状に「関ヶ原表」だと記述されているくらいですね。(これは後述します。)

さらにもっと眉唾で怪しいことが。現在は一般的に広まっている「関ヶ原合戦布陣図」がそうなのですね。「関ヶ原合戦布陣図」は明治26年に陸軍参謀本部が編纂した「日本戦史 関原役」の中に収蔵されている図面で、各武将の詳細な布陣の様子が描かれているものの、その根拠となった文献史料がまったくといって良いほど皆無なのです。あくまで創作の域を出ず、信憑性に乏しいものだといわれています。

明治の郷土誌家だった神谷道一が著した「関原合戦図志」を参考にして、岐阜県の役人たちが相談して陣所を決めたそうですから、そこに信憑性など1ミリもないのです。

武将がいた陣所の場所も実際は違っていた?

一般的に知られている「関ヶ原合戦布陣図」が後世の創作だったとすると、おのずと陣所跡だとされている史跡の存在なども否定されることになります。

例えば、西軍の総大将だった石田三成が本陣を置いたとされる「笹尾山」。ここは多くの観光客が訪れる場所でもありますね。しかし、笹尾山という地名は一次史料には一切出てきませんし、現地を発掘しても遺構など何も出てきませんでした。ところが、関ヶ原合戦に関する数少ない一次史料「島津家家臣史料」を詳細に分析したところ、笹尾山からはるか南西の方角にある藤下若宮八幡宮南側の丘陵に、東西約300メートルの土塁を含む陣城の遺構を確認されたのです。これが石田三成の本陣なのではないか。という説が有力になりつつあります。

なぜ、本来の主戦場から遠く離れた南西方向に、陣の跡が存在しているのか?ますます謎は深まるばかり。

一次史料をもとに合戦の布陣を分析してみる

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ここから先は通説を覆す【新説】を解説していきましょう。これまでの各武将の布陣がまるでデタラメだったことがわかりましたが、実際にはどのように布陣していたのか?謎を解き明かします。

一次史料「島津家家臣史料」による分析【その1】

関ヶ原における新説を研究発表されておられるのが、別府大学文学部史学科の白峰教授です。白峰教授の研究成果を基にして「島津家家臣史料」を解説していきますね。「島津家家臣史料」は「薩藩旧記雑録」という島津氏の文書集の中に収蔵されおり、関ヶ原合戦の直後に編纂されたものであること、実際に合戦に参加した人間が書いているもの。であることから、非常に信憑性が高い史料であるといえるでしょう。現代文で訳してあります。

9月15日、開戦前に亀井茲矩から、敵が来たので鉄砲衆を加勢してほしいとのことだったので、濱の市衆を遣わすべき旨、(島津豊久の)御意にて城井三郎兵衛殿を遣わした。その衆が亀井茲矩の備そなえに到着する途中と思われる時分に、早くも味方勢は崩れた。以後、聞いたところでは、亀井茲矩は野心(謀反をおこそうとする心)があったということらしい。

「山田晏斎覚書」より

同じ西軍の亀井茲矩から、敵が来たから加勢してきてほしいと言ってきたので、鉄砲衆を応援に向かわせると、着くか着かないかのところですでに味方が崩れだした。とあります。開戦してすぐに西軍が劣勢になったことが読み取れるのです。

各自が見たところ、思った通り、関東の大勢数万騎が見えた。この軍勢が次第に攻めて近付き、島津義弘の備より東方にある宇喜多秀家の備に(家康方の軍勢が)押しかけてきて(おそいかかってきて)合戦になり、宇喜多秀家の備は敗れた。

「某覚書」より

宇喜多秀家隊は、島津義弘隊よりも東方(先陣)にあることがわかります。

石田三成・小西行長の人数(軍勢)が家康方の軍勢に向き合って、鉄砲の合戦をして、それから太刀打ちになり、激しい合戦になった時(後略)

「長野勘左衛門由来書覚書抜」より

家康方の軍勢に向き直ったということは、石田隊と小西隊は先陣だったことがわかるのです。

一戦前(石田三成方軍勢の主力本隊と家康方軍勢が戦う前)に大谷吉継の陣を小早川秀秋が攻め破った時に、この方(島津豊久)の備の近辺を馬乗二騎が通った。(中略)その後、(小早川秀秋が)大谷吉継の陣を攻め取ったことを、家康方の軍勢へ注進する使者であったのであろう。とのとのことらしい。

「黒木左近・平山九郎左衛門覚書」より

この馬乗した騎馬武者二騎は、大谷の陣を破ったことを知らせるための小早川の使者だった。しかも西軍主力と家康方が戦う前に、すでに大谷隊が壊滅状態になっていたことに注目です。

一次史料「島津家家臣史料」による分析【その2】

夜が明けると、東国衆は大谷吉継の陣に攻めかかり、6~7度の合戦があったところに、上の山より小早川秀秋が白旗を指させて横入りして、大谷吉継の人数(軍勢)は一人も残らず討ち取られた。宇喜多秀家の陣へは(家康方の)新手の大将が攻めかかって追い崩し、この方の陣(島津義弘の陣)へ攻めかかってきた。東は別の手の(家康方の)大将が攻めかかって石田三成の陣を追い崩したので、この方の陣(島津義弘の陣)へ攻めかかってきた。

「神戸五兵衛覚書」より

これを読むと、小早川勢が大谷の陣へ攻めかかり壊滅させたあと、今度は宇喜多の陣へ新手(福島正則)が攻めかかって追い崩し、別の手である黒田長政が石田の陣を追い崩したとあります。となると各陣はあまり離れておらず、ある程度密集していたことが伺えるのです。そしてドミノ倒しのように西軍の陣が崩れていったのでしょうね。

また大谷吉継が関東勢を一町あとへ突き戻し、互いに二三度もみ合っていた時、大谷吉継陣の備のうしろの岡に備があった小早川秀秋が返り忠(裏切り)によって岡から真下に攻めおろし、大谷吉継の軍勢を残らず討ち取った。

「某覚書」より

これによると、小早川は松尾山ではなく、大谷の陣の後ろの丘に陣取っており、そのまま攻め下って討ち取ったとありますね。警戒していない真後ろから攻めかかられたら、ひとたまりもないことがわかります。

(合戦が始まって)石田三成は一時(わずかな時間)ももちこたえられず、島津豊久の陣場へ崩れかかったところ、島津豊久は少しもちこたえた。(中略)宇喜多秀家の陣取りと島津義弘の陣の間に池があり、宇喜多秀家の人数(軍勢)は皆々この池に逃げ入り、この方(島津義弘)の陣場に(も)乱入した。

「黒木左近・平山九郎左衛門覚書」より

合戦が始まってすぐに石田隊は少しも持ちこたえられずに崩れ、続いて宇喜多隊も池の方へみんな逃げたとあります。通説では善戦して一進一退の戦況だったはずですが…

一次史料「島津家家臣史料」のまとめ

※通説にあるような鶴翼の陣(横に広がって敵を包み込むような陣形)ではなく、西軍各陣は密集していた可能性が高い。(石田隊、小西隊が先陣)

※最初に東軍と戦端を開いた大谷隊の背後の丘から、小早川隊が裏切って襲い掛かった。大谷隊はたまらず壊滅。

※主力同士が戦う以前から、小早川隊が裏切っている。

※大谷隊を壊滅させた後、東軍の新手が石田隊、宇喜多隊に襲い掛かる。

※開戦してから一瞬のうちに、ドミノ倒しのように西軍の陣が崩れ敗走した。

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明石則実