3.おりょうには幸せを送った寺田屋事件
寺田屋におりょうを預けた龍馬は、薩長同盟を実現するべく奔走しました。事件が起きたのは、ほっと安心した時のこと。寺田屋にいた龍馬に、命の危機が訪れたのです。それを救ったのは、妻おりょうでした。この後、龍馬とおりょうは、日本初となるハネムーンに出かけます。
3-1寺田屋でお春として働くおりょう
寺田屋の女将お登勢に、「お春」という名前を付けられ働きました。お登勢は、おりょうをかわいがったようです。薩長同盟が上手くいかなかった途中段階で修復のため、龍馬は一端京都に戻りました。龍馬とおりょうは、束の間の夫婦のひと時を過ごしました。
二人で京の町を歩いている時、目の前を歩いてくる新選組と遭遇してしまい慌てて隠れたことは後におりょうにとっては、龍馬過ごした証となったようです。新選組の局長近藤勇は、おりょうに櫛やかんざしをプレゼントしたということもあったと話しています。
おりょうは龍馬のために影武者のように働いていたようです。龍馬の奥方との事実を知っていたかは分かりませんが、近藤勇がおりょうにプレゼントを送るなんて普通では考えられません。だって龍馬は、新選組の格好の獲物なんですもの。おりょうは、龍馬絡みの密書の受け渡しや、海援隊の隊士の世話をするなど、裏で龍馬をいろんな形でサポートしていたようです。
3-2「逃げて」とのおりょうの声に命を救われた龍馬
慶応2(1866)年1月22日に、京都の薩摩藩邸で龍馬立会いの元「薩長同盟」がなんとか成立しました。その翌日の1月23日に龍馬が、おりょうの働く寺田屋に投宿中のことです。何か騒がしいことに胸騒ぎを覚えたおりょうは、風呂の窓から伏見奉行所の捕り方(新選組13人)の姿を確認しました。
そして、袷を一枚つかむとそれをはおり、二階に駆け上がり「逃げて!表に捕り方が…」と伝えました。おりょうの機転により、ピストルを使って龍馬は落ち着いて反撃し、右手親指を負傷するも危機を脱することができました。この時一緒にいた長州藩の三吉慎蔵も、命拾いをしています。その後は薩摩藩邸に逃げ込みました。でもこの時負傷したことで、右手の人差し指は、動かなくなったようです。
龍馬は、後に『寺田屋遭難事件』での出来事を、姉乙女への手紙に「おりょうがおればこそ、龍馬の命はたすかりけり」と書いています。漬物石を乗せた樽をよけると、裏木戸がありそこから龍馬を逃しました。逃げ道を作ったのは、とてつもなく重かった漬物樽を動かす程の火事場の馬鹿力を出したおりょうだったのです。手紙の内容からも、おりょうに対する感謝の気持ちがよく分かるエピソードですね。
3-3手傷を癒すための温泉旅行が日本初のハネムーン
薩摩藩邸で療養した時に、西郷隆盛と小松帯刀に手傷の湯治に二人で出かけたらどうかと勧められました。行先は鹿児島と霧島です。薩摩藩の船「三邦丸」に乗り、大阪から出航しました。この船には、西郷隆盛や中岡慎太郎、三吉慎蔵も乗船しています。
3月10日~6月1日まで約3か月間の新婚旅行でした。初めて二人が夫婦らしい日々を過ごしたといっても過言ではありません。3月16日~4月11日までは、日当山(ひなたやま)温泉や塩浸(しおひたし)温泉をゆっくり巡り、高千穂の峰のハイキングを楽しんだようです。途中、西郷隆盛や小松帯刀の自宅にも訪れています。
龍馬のピストルの八面打ちは有名ですね。おりょうもピストルを習い、短銃で鳥を打つなど相当な腕前に成長しています。おりょうにとっても、この新婚旅行は一生の思い出に残る旅となったようです。
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4.愛する龍馬の死とおりょうのその後
楽しいハネムーンを終えた龍馬とおりょうは、また別々の生活を送るようになります。龍馬は、長州藩主毛利敬親(もうり たかちか)に謁見するため長州に向かいました。おりょうは、途中長崎で下船しています。
4-1また龍馬と離れ離れになるおりょう
薩摩から桜島丸に乗って長州に向かいました。「この仕事が済んだら、山の中に入って隠居暮らしをしたいと考えている。その時、退屈になったらおりょうの弾く月琴を聞きたい。」と、龍馬はいいました。もちろん、おりょうは月琴の弾き方を知りません。途中長崎で下ろすから、そこで学んでほしいといいきかせたのです。
それに従ったおりょうは、龍馬が興した亀山社中に別邸を貸していた小曽根英四郎(こぞねえいしろう)宅に身を寄せました。月琴も英四郎の姪お菊に教わっています。
藩主毛利敬親に謁見した際、第二次幕長戦争の応援を頼まれました。これは大勝利に終わり、たくさんの洋服生地など褒美を給わり薩摩へ戻りました。龍馬の支援者だった小曽根のところにいつまでもおりょうを置くことはできず、薩摩に同行させています。