幕末日本の歴史江戸時代

坂本龍馬の妻「おりょう」はどんな人?龍馬の命を救ったおりょうをわかりやすく解説

4-2突然訪れた龍馬との永遠の別れ

寺田屋遭難事件で、龍馬は奉行所の役人2名を射殺しています。その上龍馬を取り逃がすという失態を犯した、伏見奉行所は龍馬を捕えることに躍起になっていました。京都に龍馬が来ていると聞くと、新選組や見廻組が龍馬を必死に捜索しています。ついに、京都守護職松平容保(まつだいら かたもり)が暗殺指示を出しました。

慶応3(1867)年11月15日21時ごろのこと。見廻組の3人が近江屋に踏み込んだのです。中岡慎太郎と面談中だった龍馬は、心の準備もなく暗殺されていました。龍馬は一刀の下に脳天を砕かれたための即死でした。この時、ことを起こしたのは新選組で、近藤勇が断罪になっています。しかしこれは、まぎれもなく幕府の見廻組の仕業です。

おりょうは、ちょうど同じ時刻に下関で、“全身を血で染めた龍馬の立ち姿”を夢で見たと語っています。龍馬の訃報は、長崎の浦田軍次郎が飛脚となり、12月2日におりょうが身を寄せていた、下関の伊藤九三の元へと伝えられました。気風のよいおりょうですが、それを聞いた時は流石に泣き伏し、その姿には皆が同情したようです。現在、龍馬の血が飛び散った床の間の『梅椿図の掛け軸』は、京都国立博物館に所蔵されています。

4-3龍馬の死後のおりょう

龍馬の死後おりょうは、土佐の坂本家に身を寄せました。これは生前、龍馬が伝えていたことです。龍馬から頼まれていた長府藩士三吉慎蔵は、おりょうを坂本宅まで送り届けています。ですが、昔から家事が苦手だったおりょうは、龍馬の義兄の権平夫妻と折り合いが悪く、3ヶ月ほどで坂本家を去りました

龍馬の姉乙女は生涯龍馬の手紙を大切に保管しましたが、おりょうは全てを自分の心の中に刻み込むと手紙を全部焼き払ったようです。しばらくは、土佐にいたものの、明治2年にお登勢を頼って京都に戻る決心をしました。しかし、京都でも居場所を得られませんでした。

4-4横須賀で晩年を過ごすおりょう

京都を追われたおりょうは、勝海舟や西郷隆盛を頼って東京へやってきます。勝海舟の勧めで、明治7年に神奈川県の料亭(現:割烹田中家)で仲居として働きました。その後、義兄の菅野覚兵衛(すがの かくべえ)の進めにより、横須賀の商人西村松兵衛と再婚しています。この時、西村ツルと改名。大阪の母貞と妹光枝の息子と同居し、一家4人で暮らしています。光枝の息子松之助は養子としました。でも、明治24年に母貞に続けて松之助も亡くなっています。

坂本龍馬の死後のおりょうは、決して幸せではありませんでした。明治30年ごろのおりょうは、アルコール中毒になっていたようです。「私は龍馬の妻だ!」と松兵衛に毒づいていたとか。その内、夫松兵衛にと妹の光枝が内縁となってしまったため別居し、退役軍人の工藤外太郎に保護され晩年は一人でひっそりと過ごしたようです。明治39(1906)年1月15日に66歳で永眠しました。

亡くなって8年後に妹の松枝と夫の西村松兵衛によって、大津の信楽寺(しんぎょうじ)にお墓が建てられました。本人の意思を尊重し墓碑には「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれています。

龍馬もおりょうも、真実の愛を感じていたのでは?

龍馬には北辰一刀流の免許皆伝の千葉さな子という許嫁がいました。でも、龍馬が、実際に結婚したのはおりょうです。おりょうも、龍馬の死後再婚するも龍馬への思いを断ち切れませんでした。愛する二人は天国で仲良く暮らしていることでしょう。

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