世界各地に壊滅的被害をもたらした黒死病・ペストとはどのような病気か
ペストから逃れる手立て
中世ヨーロッパではペスト菌は発見されていませんでしたが、感染症であるという認識はありました。そのため、ペストの侵入を防ぐための検疫というシステムが作られます。
たとえば、中東との貿易が盛んだったヴェネツィア共和国ではペストの疑いがある船を港で40日間、強制的に停泊させる措置を取りました。ペストが街に侵入する前に防ごうというのです。この仕組みはヴェネツィア以外でも実施されました。
検疫という伝染病阻止の仕組みは現代でも空港や港湾などで実施されています。ちなみに、現代日本で検疫の対象となっている病気はエボラ出血熱、クリミア・コンゴ出血熱や天然痘(痘瘡)、ペスト、マールブルク病、ラッサ熱などの一類感染症に分類される病気です。
19世紀末に中国南部で大流行したペスト
19世紀末の1894年、日清戦争の開戦前夜にあたるこの年にペストは中国南部で突如現れました。ペストはイギリス植民地で貿易の中心地となっていた香港に拡大、大流行を引き起こします。
突然のペスト大流行は香港をパニックに陥れました。人々はペストから逃れるため、夜陰に乗じて対岸にある九龍半島へ渡るものも現れました。この時、広東省の講習では8万人とも10万人ともいわれる死者が出ます。ペストは中国南部にとどまらず世界中に拡大。アジア各地でも死者が出ます。
中でも多くの死者を出したのがインドでした。20世紀初頭の1907年、インドでは100万人以上がペストの犠牲になったといいます。このペスト大流行のさなかに香港に乗り込んだ二人の研究者がペストの正体を暴きました。北里柴三郎とフランス人のエルサンです。
ペスト菌の発見と対処・治療法の確立
ペスト大流行の香港に、別々のルートから乗り込んだ北里柴三郎とエルサンはペスト菌を発見。ようやく、ペストの原因の特定に成功し治療の道筋がつけられました。ペスト菌を特定した北里柴三郎はペストが近い将来日本にもやってくることを予測し、防疫体制を整えます。
ペスト菌の発見
中国でペストが大流行した時、二人の研究者が香港でペストの原因究明にあたっていました。一人は日本人の北里柴三郎です。北里は明治政府の命により香港に渡っていました。香港に到着するや否や、北里らは急いで死亡患者の解剖を実施します。
しかし、顕微鏡で調べてみると腐敗が進んだ遺体からは様々な菌が検出されてしまい、どれがペスト菌か判別がつかない状況でした。北里は脾臓などの内臓をしらべ、既知の伝染病である炭疽症に似ていることに気づきます。炭疽症は血液中に菌が入る病気であることからペスト菌も同じように血液中にいるのではないかと考えました。
北里の予想は的中し、生きている患者の血液からペスト菌を検出したのです。同じころ、フランス人のエルサンもペスト菌の検出に成功していました。こうして、長い間わからなかったペストの原因が突き止められたのです。
ペスト拡大を阻止する手立てと治療法の確立
従来、ペストの感染を阻止する手立ては3つしかありません。一つは、ペスト菌の侵入を防ぐ検疫を実施すること。二つ目はペストの流行地域から避難すること。もう一つはペストの発生地域を封鎖し、流行が収まるまで待つか患者が出た家を焼き払うかなどして感染を一定地域に封じ込めるという方法です。
これは、ペストが流行した街に多くの悲劇をもたらしました。こうしたペストに伴う不条理を題材としたのがカミュの『ペスト』です。
ペスト菌発見以後は治療法も確立されました。ペスト菌は抗菌薬に弱いことから、早い段階で抗菌薬を投与することで完治できることが分かったのです。現在、日本ではストレプトマイシンという治療薬が保険適用。もはや、ペストはかつてのような「罹ったら死んでしまう病気」ではなくなったのです。
日本に襲来したペストと防疫体制
世界各地で猛威を振るったペストは香港での流行の5年後にあたる1899年、日本に上陸しました。北里柴三郎はペストがいずれ日本にも上陸すると考え、周到に対応策を考えていました。
香港から帰国後、北里は伝染病予防の重要性を政府に説きます。これに応じて、1897年に伝染病予防法が成立。上下水道の整備や患者の隔離、感染地域の消毒や船舶などでの検疫などが定められました。
また、北里は香港のペスト患者の家から多くのネズミの死骸をみつけネズミとペストの関連に気づきます。日本にペストが上陸した時、防疫を徹底させるためネズミの駆除も行われました。その結果、ペスト菌に感染したのみが日本の山野に棲むげっ歯類に広がることを防ぎ、ペストの日本定着を阻止することに成功するのです。