将軍徳川綱吉という人物
徳川幕府の第5代将軍として権勢を振るった徳川綱吉。彼の治世で「生類憐れみの令」をはじめとする様々な施策が打ち出されました。決して暗愚ではなく、学問を振興させた将軍としても有名です。では、なぜ彼が「生類憐みの令」という前代未聞の法令を出すに至ったのか?まずは彼の生い立ちからたどっていくことにしましょう。
元々、将軍になれる可能性はなかった
綱吉は、「生まれながらの将軍」であった3代将軍家光の四男でした。すでに幕府の体制も安定し、ようやく世の中に平和の気風が醸成されつつあったこの時期、1646年に江戸城で誕生します。
母は玉(のちの桂昌院)といい、元来は非常に身分の低い出自だったとのこと。京の西陣織職人の娘だとか、畳屋の娘だという俗説はあるものの、はっきりとはしておらず、いずれにしても部屋子として大奥へ上がった際に、家光の手が付けられたのでしょう。
母の身分が低く、しかも四男。この場合、まず将軍になれる可能性はゼロに近く、綱吉は成長すると館林藩(現在の群馬県館林市)の藩主となりました。
相次ぐ兄たちの死で将軍職が転がり込む
家光の死後、長兄の家綱が4代将軍として就任しますが、生まれつき体が弱く、子供もできませんでした。そうなると実際に政治を動かしていたのは幕府の長老たちでした。特に大老酒井忠清によって専制政治が敷かれ、酒井は権勢を欲しいままにして「下馬将軍」と呼ばれるように。れっきとした将軍がいながら臣下の者が将軍扱いされるなど、綱吉はこの状況を見て、「やはり将軍は強くあらねばならない」と思いを強くしたのかも知れませんね。
1680年、将軍家綱が死去します。既に次兄の亀松は幼い頃に夭折し、三男の綱重も2年前に他界。そうして最後に残った綱吉が後継者として将軍宣下を受けたのでした。
将軍権力を取り戻す綱吉
こうして徳川幕府第5代将軍となった綱吉が最初に取り掛かったのは、まず大老酒井忠清をクビにすることでした。将軍をないがしろにする幕臣はもってのほか。将軍権力を取り戻すために、このような措置を取ったことは、彼にとって当然であったことでしょう。
その後、強権を振るって諸藩の政治状況を監査したり、勘定吟味役を置いて財政や民政を有能な者に任せたり、次々と有効な政策を打ち出し始めたのです。これを文治政治といい、強権だけでなく儒学を基とする「徳」をもって政治を行うことを第一としました。
綱吉が重んじたこの「徳」こそ、彼のアイデンティティであり、生きる指標そのものであったのかも知れません。父からの教育で儒学を研鑽し、またそれを広めようとすることにも熱心でした。江戸に湯島聖堂を建立したのも、ちょうどこの頃のことです。
彼の精神的支柱(バックボーン)には常に儒教があり、その道徳視感には「不道徳こそ罪悪である」という観念が根ざしていたのでしょう。弱いものをいじめることや、殺生という理不尽な行為は、不道徳そのものであるということ。それが「生類憐れみの令」という現実的な禁令となって結び付くのです。
彼の後半生は、貨幣改鋳による経済的混乱を日本中に引き起こしたことで、マイナス面がクローズアップされますが、将軍権力をもって幕政改革に取り組んだという面では評価されてもいいのではないでしょうか。
「生類憐れみの令」とはどんな内容?
生類憐れみの令は、一説には子供に恵まれない綱吉が、前世に殺生をした報いを改めるために出した法令だと言われていますが、現在の学説からは否定されつつあるようですね。では、生類憐れみの令とはいったいどんな法律で、どんな内容だったのか?具体的にその姿を見ていきましょう。
犬をはじめとする動物に関する法令
「生類憐れみの令」という法令は、一度にまとめて出されたわけではなく、1682~1687年までの間に数回にわたって発布されました。といっても、お触れを出しても守られない法令は、何度でも出されました。
一、鳥類・畜類、人の疵付け候やう成るは、唯今までの通り相届けるべく候。その外友くひ、またはおのれと痛め煩ひ候ばかりにては届けるに及ばず候。随分養育致し、主これ有り候はば、返し申すべき事。
(鳥や牛馬を人が傷つけた場合は、これまでの通り届け出ること。また、共食いや自らを痛めて苦しんでいる動物がいる場合は届けなくてもよい。しかし十分に養生させ、飼い主がいるようであれば返すこと)
一、主無き犬、頃日は食物給させ申さず候やうに相聞こえ候。畢竟食物給させ候えば、その人の犬のやうに罷り成り、以後まで六ケ敷事と存じ、いたはり申さずと相聞こえ、不届きに候。向後左様これ無きやう相心得るべき事。
(飼い主がいない犬に、食べ物を与えないようにしていると聞く。与えれば、その人の犬のように思われて後々面倒なことになると心配しているからだ。まことに不届きなことであるため、以後はそのようなことの無いようにせよ)
一、犬ばかりに限らず、惣じて生類、人々慈悲の心を本といたし、あはれみ候儀肝要の事。
(犬だけでなく、生き物すべてに、人の優しい心をもって接することが肝心である)
内容をやや割愛しましたが、これって現代の日本でも通じる内容ですよね。優しい気持ちを持つ人間として、犬だけでなく動物にも分け隔てなく接するように。という法律は、まさに動物愛護法そのものだといえますね。
人に関する法令
通称は「生類憐れみの令」と名が付いているものの、保護の対象となるのは、何も動物ばかりではありませんでした。弱い立場の人間でさえ救うべきだと定めたのです。
一、捨て子これ有り候はば、早速届けるに及ばず、その所の者いたはり置き、直に養ひ候か、または望みの者これ有り候はば、遣はすべく候。急度付け届けるに及ばず候事
(捨て子を見つけたら、直ちに届け出ることはない。その場所にいる者がいたわって養生させ、もしその子を養子にと望む者があれば、そのようにせよ。直ちに届けることはない。)
これは当時、横行していた捨て子に対する施策の一部だったわけですが、この他にも、社会的弱者保護に関する様々な触れ書きを出しています。
ですから、生類とは「生きとし生けるもの」のことであり、そこには人間も動物も関係ない、弱いものは救われるべきだという儒学の理念が見て取れるのです。