フランス革命とは 簡単な説明
フランス革命は1789年に起こったパリのバスティーユ牢獄の襲撃を始まりとする革命です。この革命によってフランスの歴史やヨーロッパの歴史の大きな転換点となり、後にナポレオンが活躍するようになっていきます。まずはなぜフランス革命は起きたのかをフランス革命の重要な原因である3つを紹介しながら見ていきましょう。
原因その1 アンシャンレジームの存在
フランス革命が起こる以前のフランスではアンシャンレジーム(旧体制)という階級が存在していました。階級が存在していたのは日本でも江戸時代に士農工商があったように比較的当たり前のことでしたが、この身分の差がえげつないもので階級が一番上の王族や聖職者などの第一身分と貴族などの第二身分は税金は免除。さらには豪華な生活やパーティをなんの仕事をせずとも行えることができるという特権があったのです。ちなみにこの第一身分と第二身分が占める人口の割合はわずか2パーセントでした。
しかし、その一方でフランス全国民の98パーセントにも及ぶ第三身分であった農民や市民は到底払えることができない重税や到底することができない過酷な労働を強いられており、第三身分の人はちゃんと働いているのに報われない理不尽きわまりない状況に置かれていたのです。
原因その2 フランスの財政の崩壊
1780年代のフランスは歴史上最もやばいレベルの財政難が問題として浮上していました。この赤字の原因は何と言っても第一身分と第二身分のパーティ代やルイ14世の頃に建てられたヴェルサイユ宮殿の建設費用が莫大だったこと。さっさと廃止すれば良いもののやっぱり楽したいからでしょうか。これには目をつぶってさらに市民から税金を搾り取るという悪循環に陥ってしまいます。さらに、当時アイスランドのラキ火山が噴火したことによって引き起こされた冷害による財政収入の激減やアメリカ独立戦争の援助費用がさらにフランスのふところを圧迫していき、フランス革命が起こる直前には国の収入の9年分にも及ぶ莫大な赤字を抱えてしまい国の財政は崩壊の危機に瀕してしまいました。
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原因その3 啓蒙思想とアメリカ独立革命の影響
フランス革命は市民が起こした革命ですが、この頃のフランスでは絶対王政という王様の存在が絶対であるというジャイアンみたいな体制であった上に、市民や農民たちは絶対王政に歯向かったら何されるかわからないし、そもそもこの状況が当たり前と思っていました。とあるお隣の国はフランスみたいな絶対王政ではなく、憲法や議会に基づいて政治をしている立憲君主制の体制をとっていました。その国の名前はイギリスなんですが、この頃のイギリスでは啓蒙思想という思想を取り入れて近代国家としての道を歩んでいっていました。
さらに、この時代に活躍した『三権分立論』で有名なモンテスキュー、『抵抗権』を主張したロック、『社会契約論』を書いたルソーなどの思想家の思想なんかもフランス民衆の思想の変化に影響を及ぼしていきます。
さらに1776年から始まったアメリカ独立革命でアメリカの植民地に住んでいた人々がイギリスから独立して新しい国を作ったことはフランス市民たちに「あれ?アメリカが独立したのなら俺でもこの生活変えられるんじゃね?」と勇気と自信を与え、このことはフランス革命の原動力となっていきました。
テュルゴーとネッケルによる財政改革
フランスの財政がとんでもない状態になっていることに焦っていた当時の国王であるルイ16世はテュルゴーを財政長官に任命して財政改革を命じます。
テュルゴーは「財政よくするならとりあえず特権を無くして第一身分と第二身分から税金を取るべきだろ」として第一身分と第二身分に税金をかけるという思い切った改革を行おうとしました。でも、貴族や聖職者はこれに「なんでテメーの命令で特権をとられなきゃいけないんだ!」と怒り心頭。ルイ16世に「あいつをクビにしろ」と迫り、テュルゴーは改革を成し遂げることができず財務長官を辞職してしまいます。
しかし、ルイ16世もこれ以上やったらヤバイことは分かっていました。そこで次はスイスの銀行家であるネッケルという人を財政長官に任命して財政改革を命じました。ネッケルは賢い人で出来るだけ貴族から文句が出ないように国債の募集や政府内の大規模なリストラなど税金による改革ではなく、構想による改革を行おうとしますが失敗。結局ネッケルも貴族に税金をかけなければどうしようもないとして貴族に税金をかけようとしますが、もちろんこれには貴族も猛反発。結局ネッケルもクビになってしまいました。
三部会の開催
テュルゴーをクビにした後財務長官はコロコロ変わっていきますが、ルイ16世はやはりテュルゴーに改革をやってほしいと思っており、再び財務長官になってくれと頼み込みます。テュルゴー自身は別にやっても良かったのですが、問題はやはり貴族。貴族に反対されたらどんなに改革を行おうとしでも無駄に終わってしまい、改革の意味がありません。そこでテュルゴーはルイ16世に対して三部会の開催を要求してそこで決めるべきと主張し始めました。三部会というのは元々フランスで行われていた第一身分と第二身分と第三身分が相談し合う会議のことで、ルイ14世による絶対王政から行われていませんでした。
ルイ16世はこれによっていろんな問題が解決できると思っていましたが、第三身分からすればこんなことしても生活は変わらずもう我慢の限界に近いものであり、さらに投票の仕方も貴族が圧倒的に有利な各身分に一票ずつにするのか、市民が圧倒的有利である議員に一票ずつにするのかでもめにもめまくり、この三部会は行き詰まってしまいます。