旧常識1・日本は鎖国していた
江戸時代の日本は「鎖国」をしていた、と学校で習った方が多いと思います。キリスト教の影響が日本に及ぶことを恐れた幕府は、外国との貿易を禁止して、長崎の「出島」という場所で限定的にオランダとだけ貿易をすることにしました。1639年に南蛮船(ポルトガル)との交易を禁止して、日本は鎖国状態に入ったと言われます。そして、幕末の1854年に日米和親条約を結んで、下田と箱館(現在の函館)を開港し、日本は「開国」した……というわけです。もちろん、この歴史自体には大きな間違いはありません。
新常識・「鎖国」はなかった!
ところが、現在の教科書では「鎖国」という言葉は使われなくなっています。なぜなら、江戸時代の日本は「鎖国」というような閉じられた状態ではなく、海外との4つの窓口があったからです。その4つとは、オランダや清(中国)と貿易していた「長崎・出島」、朝鮮との窓口になった「対馬」、琉球との貿易を行っていた「薩摩」(当時の琉球/沖縄は独立国でした)、アイヌと貿易していた「蝦夷地」(北海道)。さらに琉球を経由して東南アジアと、アイヌを経由してロシアとの貿易を行っていたとも言われます。この4つの窓口によって日本は世界に扉を開いており、とても「鎖国」とは言えない状態だったのです。
「鎖国」は明治時代に定着した用語
江戸幕府も「鎖国令」などという制度を作っていません。では、なぜ「鎖国」などという言葉が使われるようになったのでしょうか。
1853年にペリーが黒船でやってきて、アメリカとの貿易を行うように強硬に迫りました。その時になって日本人は、「あっ、日本ってそんな欧米列強から強く迫られるほど『鎖国』してたんだ」と気付いたわけです。そして明治時代になってから、「鎖国」という歴史用語が広く使われるようになりました。こうして、「江戸時代=鎖国」のイメージは後から作られていったわけです。でも最近の教科書では「鎖国」ではなく、東アジアの他国でも見られた「私的な渡航や貿易の禁止」を意味する「海禁(かいきん)政策」という用語が使われるケースもあります。
日本という国は閉鎖的な「島国」だとよく言われますよね。それが「鎖国」という言葉にも表れています。でも、日本は古代から海を通じて世界に開かれていて、盛んに交流があったんですね。そのことを意識すると、歴史の見方もずいぶん変わると思います。
旧常識2・江戸時代は「士農工商」の厳しい身分制度があった
江戸時代は厳しい身分制度のある社会でした。特に有名なのが「士農工商」という言葉です。つまり、「士=武士」、「農=農民」、「工=職人」、「商=商人」という序列があって、上の者には逆らえず、先祖代々から身分が固定されている階級社会。そんな風に教わった方も多いかと思います。なぜ農民が2番目なのかというと、農民は米などの作物を生産しているからで、何も生み出さない商人より上だった、というような説明もよくされていました。では、実際はどうだったのでしょうか。
新常識・階級は「武士」と「町人・百姓」
江戸時代では武士に苗字帯刀、切捨御免(無礼な者を斬っていいという権利)などの特権が認められ、支配的な地位にいたというのは事実です。
でも、実際には農民・商人・商人に身分の上下はなかったんですね。そこで現在の教科書では「武士」、「町人・百姓」という身分が書かれています。町人と百姓は身分に違いがあるわけではなく、都市に住んでいる人が町人で、農村・漁村などの人が百姓と言われていたという程度の違いです。農村から江戸に出てくる人がいたり、養子縁組で武士になる商人がいたり、逆に武士が農民になるなどということも珍しくなくて、身分移動は意外と柔軟に行われていました。
ただ、江戸時代の身分制がゆるいものだったとも言えません。「えた・ひにん」と呼ばれて社会から排除されていた人々がいて、明確に差別されていたということには注意が必要です。
「士農工商」も明治時代のイメージ
では、「士農工商」という言葉はいつ定着したのでしょうか。それは、またしても明治時代なんですね。明治の新政府は「四民平等」というスローガンを掲げました。武士の特権は廃止され、町人・百姓の移動や職業選択が自由になるなど、近代的な制度が整備されます。そこで、明治時代には「江戸時代には士農工商という身分制度があり、明治時代になって四民平等となった」という歴史観が生まれたのです。
これは明治政府の近代化アピールみたいなものだと言えるでしょう。実際には武士は「士族」となり、「皇族」「華族」という新たな身分が作られました。また、「えた・ひにん」は「新平民」と呼ばれて依然として差別されていたというのも事実です。後に「士族」の階層は実質的に解体されましたが、日本国憲法ができるまで戸籍に身分が書かれるということが残っていました。
「士農工商」のイメージは後世に作られたものだったとしても、身分制の弊害はずっと後の時代まで影を落としていたと言えるでしょう。
旧常識3・水呑百姓は貧しかった
江戸時代の農民は「代官に年貢をいっぱい取られて、米も食べられないほど貧しかった」というイメージがあるのではないでしょうか。教科書には、土地を持っている「本百姓」とは違い、水しか飲めないほど貧しかったということで「水呑(みずのみ)百姓」という言葉があったと書かれています。正確には「田地を持てず、年貢を課されない百姓」のことで、貧しかったばかりでなく、年貢を負担していないために村での発言権がないという低い身分に置かれていました。土地がないので、土地を持っている人の下働きをする「小作人」になったり、日雇い労働をしたりしていたのです。