混乱の真っただ中の甲斐国内に生まれた信虎
武田信玄の父・武田信虎は、父と祖父・叔父が争うという武田家の混乱期に生まれました。大地震により両者は和睦したものの、父の死により信虎が家督を継ぐと、再び抗争が起こります。そして叔父を打ち破るも、次は隣国の強敵・今川氏が攻め込んで来たのでした。戦いの連続だった信虎の若き日を見ていきましょう。
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父と祖父・叔父が争う
武田信虎は、明応3(1494)年に甲斐(かい/山梨県)の武田信縄(たけだのぶつな)の息子として誕生しました。当初は「信直(のぶなお)」と名乗ったようですが、ここでは「信虎」で統一したいと思います。
信虎の息子・信玄のころになると、武田氏といえば戦国最強をうたわれるようになりましたが、信虎が生まれたころは、家の中はめちゃめちゃでした。
信虎の祖父・武田信昌(たけだのぶまさ)は、隠居して信縄に家督を譲ったはずだったのですが、もともと可愛がっていた信縄の弟である油川信恵(あぶらかわのぶよし)に家督を譲りたいと言い出したのです。
これでは、跡目争いが起きるのも当然ですね。信縄VS信昌・信恵の構図が出来上がってしまったのでした。
家督を継ぐが、叔父が反乱を起こす
しかし、明応7(1498)年、M8.6という日本史上でも最大規模の地震・明応地震が勃発します。これでは争っている場合ではなく、信縄と信昌・信恵は和睦しました。
そして永正4(1507)年、信縄の死去に伴い、信虎は14歳で家督を継いだのです。
ところが、家督を継いだ途端に彼は試練に直面します。和睦したはずの叔父・油川信恵が不穏な動きを見せ、甲斐国内の豪族たちと連合し、挙兵したのです。
まだ14歳の信虎にとっては、絶体絶命ともいえる大ピンチでした。
次なる敵は強敵・今川氏!
しかし、信虎はここで生まれもった戦のセンスを発揮します。勝山城の戦いで信虎は大勝利を収め、信恵を討死させたのです。これでようやく、武田家の内紛は収まったのでした。
ただ、まだまだ周辺には信虎を侮る勢力がうごめいています。信虎は攻撃の手を緩めず、信恵に加担していた小山田弥太郎(おやまだやたろう)を破ると、その跡継ぎには自分の妹を嫁がせ、ただ倒すだけではなく自陣営への取り込みを図ったのです。
ただ、続けざまに穴山氏や大井氏が信虎に敵対し、甲斐への進出を狙う今川氏と結びました。さすがの信虎も大敗を喫し、ついに今川方に勝山城を占領されてしまったのです。
とはいえ、今川氏の方でも、他に交戦中の勢力がいました。このため、信虎との和睦が成立し、同時に大井氏とも和睦が結ばれ、信虎は大井氏から正室を迎えることとなったのでした。
甲府の基礎を築き、周辺への進出を進める
信虎の大きな功績として評価されているのが、武田氏の拠点・躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を建設し、城下町を整備したことです。これが、武田氏の全盛の端緒となりました。また、これまで敵対と和睦を繰り返してきた今川氏と姻戚関係を結ぶなど、勢力基盤をしっかりとつくっていったのです。
躑躅ヶ崎館を建設し、甲府の基礎を築く
永正16(1519)年から、信虎は新たな本拠地・躑躅ヶ崎館の建設を開始しました。これは信虎の最大の功績とされています。というのも、この地は三方を山に囲まれ、南に甲府盆地がひらけているという要害でしたし、信虎はここに家臣たちや商人、職人を集めて住まわせ、城下町をつくったのです。これが「甲府」の始まりでした。
しかし、信虎に対抗しうる豪族たちはこうした方針に反発し、挙兵しました。これに対して信虎は3日で3つの勢力を打ち破るなど戦巧者ぶりを発揮し、甲斐統一を着々と進めていったのです。
今川方に甲府まで攻め込まれるも、反撃し見事撃破!
ところが、信虎にまたしても大ピンチが降りかかります。
大永元(1521)年、今川方の福島正成(くしままさしげ)が武田領内に侵入し、どんどん進撃してついには甲府へと迫って来たのです。
このままでは躑躅ヶ崎館もろとも武田氏まで滅亡してしまいます。叔父と繰り広げた内紛以上のピンチに際し、信虎はやはりここでも持ち前の戦の強さを存分に発揮。飯田河原(いいだがわら)の戦いや上条河原(かみじょうがわら)の戦いで福島勢を撃破し、難を逃れることができたのでした。
この間に、身重だった正室・大井夫人は躑躅ヶ崎館の背後に築かれた要害山城に逃れ、そこで無事に男児を出産しました。この男児こそ、後の武田信玄。こんなに大変な時期に生まれていたわけです。