今川義元を支援し、娘を嫁がせる
ピンチを切り抜けた信虎は、対外政策にも力を入れ、関東の扇谷(おうぎがやつ)上杉氏と同盟を結び、関東進出を続ける後北条氏に対抗しました。
一方、和睦と敵対を繰り返していた今川氏の方で、当主・今川氏輝(いまがわうじてる)と弟の彦五郎(ひこごろう)が同じ日に死去するという事件が起き、にわかに家督を巡る雲行きが怪しくなります。亡くなった2人の弟で僧侶となっていた栴岳承芳(せんがくしょうほう)と玄広恵探(げんこうえたん)が花倉(はなくら)の乱で争うこととなり、結果、栴岳承芳が勝利しますが、信虎は早くから彼を支援していたようです。そして彼に娘を嫁がせ、強力な姻戚関係を築いたのでした。
この栴岳承芳が、今川義元(いまがわよしもと)です。後に「海道一の弓取り(東海道一の武士)」とうたわれるこの武将と義理の親子となった信虎には、先見の明があったのでしょう。
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まさかの追放劇!息子のクーデターで国に帰れなくなる
勢力拡大に邁進していた信虎ですが、娘婿の今川義元のところへ出かけた際、息子・信玄に国境を封鎖されてしまい、国に帰ることができなくなってしまいます。想定外の事態でしたが、それはすべて、息子との関係が良好でなかったことが原因でした。そのまま甲斐の地を踏めずに一生を終えることとなる信虎は、どんな晩年を過ごしたのでしょうか。
息子・信玄のクーデターで国境封鎖!?
今川氏と姻戚関係を結んだ信虎は、信濃(しなの/長野県)への進出を目論み、諏訪(すわ)氏とのせめぎ合いの中で和睦を結び、娘を嫁がせてここでも関係強化に成功しました。また、北信濃の村上義清(むらかみよしきよ)とも結び、影響力を拡大していきます。
信虎の勢いはさらに増すかに思われました。しかし、天文10(1541)年、彼が娘婿となった今川義元を訪問した際に、予想だにしない出来事が起こります。
なんと、信虎が今川領である駿河(するが/静岡県中部)に入った途端、息子・信玄が国境を封鎖してしまったのです。しかも、それには重臣である板垣信方(いたがきのぶかた)や甘利虎泰(あまりとらやす)らも加担していました。
信玄が信虎を追放した理由
なぜ信玄がクーデターに奔ったのか、その理由については様々な説があります。
信虎は信玄の下の弟・信繁(のぶしげ)を偏愛しており、家督に据えようとしたとも言われているため、それを信玄が危惧したという説。信虎は、自身の祖父と父の間に起こったことをそのまま繰り返してしまったのです。
またその一方で、信虎が横暴であったという逸話も伝わります。妊婦の腹を割いて中を見ようとしたとか、可愛がっていたサルを家臣に殺され、逆上してその家臣を手討ちにしてしまったとか…。しかしこの話は、信虎を暴君に仕立て上げようという工作が働いていたとも言われており、伝承の域を出ません。
とはいえ、信虎と信玄、そして家臣団との関係があまり良くなかったことは確実です。信虎の時代には戦ばかりが続いた上、凶作で民衆は疲弊し、経済的にも追い込まれた状況でした。それを打開するため、信玄が父を追放したと考えられています。
国に帰れなくなった信虎のその後
甲斐に帰ることができなくなった信虎は、今川義元のもとで保護されました。しかし今川氏が弱体化すると、やがて京都に居住し、室町幕府に顔を出すようになります。公家との交流も盛んだったようですね。
一方、武田氏を戦国最強クラスの大名に押し上げた息子・信玄ですが、父に先立ち、元亀4(1573)年に病で亡くなりました。
すると、信虎もさすがに故郷に戻りたくなったようで、信玄の跡を継いだ孫の勝頼(かつより)に帰国を求めます。
しかし、信玄時代からの家臣団はこれに猛反対。それはそうですよね、自分たちにとって、信虎は隠居の身とはいえ決して好ましくない旧主ですから。
このため、信虎は甲斐には入れず、信玄・信繁のさらに下の息子・信廉(のぶかど)のところに身を寄せ、その後娘婿の根津政直(ねづまさなお)のところで過ごし、天正2(1574)年、信濃の高遠で81年の生涯を閉じました。
お家騒動を起こさないことがいちばん!
信虎の死の翌年、勝頼は長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍に大敗し、全盛を誇った武田氏にも衰退の影が見え始めます。それを知らずに亡くなったのは、信虎にとっては良かったのかもしれません。息子との関係にもう少しだけ気を払っておけば、彼は足元をすくわれることもなく、暴君としてのイメージを脚色されることもなかったのではないかと思います。そう考えると、お家騒動を起こさないことは最優先されるべき事項なのでしょうね。
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