天明2年12月(1783年1月)、伊勢湾沖
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江戸時代日本は、中国・李氏朝鮮・オランダ以外の外国とは交易をしない「鎖国政策」をとっていました。特に西洋社会との接触は「キリシタンばてれん」の危険思想が徳川幕府に危機を及ぼすとして厳禁だったのです。そんな中でキリスト教圏のロシアへたどり着き、ロシアを見てきた大黒屋光太夫一行――なぜ、どうやって帰って来られたの?望郷の念と執念で日本へ帰国するまでの10年間の苦難がはじまります。
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大黒屋光太夫一行、7ヶ月に及ぶ漂流
大黒屋光太夫はそもそも何者なのでしょう?宝暦元年(1751年)生まれ、伊勢国(三重県)を故郷とする彼は海運業・廻船問屋の船頭、すなわち船長さんでした。彼が紀州藩のお囲米を運搬するための船に総勢16名のメンバーで伊勢湾へ乗り出した、そこから苦難の日々ははじまるのですが……。
ここで当時の海運業事情を紹介しておきましょう。長い歴史のある「帆船」ですが、嵐などアクシデントでメインマストが折れたりしたときのために、スペアの帆があるのが一般的です。しかし「海を伝って他藩が江戸幕府へ戦を吹っかける」という事態を恐れた徳川幕府はスペアのマストを禁止します。結果、江戸時代の海に浮かんでいたのは「一本マスト船」の和船。帆が折れたり櫓(ろ)が流れたら一巻の終わり。そんなリスキーな船を国策で使っていました。
光太夫一行の16名が運命の嵐に出くわしたのは、1813年1月(天明2年12月)。伊勢湾沖で暴風雨に遭遇し、櫓も帆も波にさらわれて海の上を漂うこととなったのです。積んでいた米を食いつなぎ、陸影が見えない海のただ中で栄養失調など試練に襲われながら、7ヶ月に及ぶ漂流でした。ついに陸地にたどり着いた彼らの前に、異形のヤツらが立ちはだかるのです。
たどり着いたのは、北の島でした
Schulmeister – U.S. Fish and Wildlife Service – This image originates from the National Digital Library of the United States Fish and Wildlife Service at this page これはライセンスタグではありません!別途、通常のライセンスタグが必要です。詳しくはライセンシングをご覧ください。 See Category:Images from the United States Fish and Wildlife Service. en.wikipedia からコモンズに移動されました。 (Original text: http://www.fws.gov/digitalmedia/FullRes/natdiglib/881FA4D0-1143-3066-4015E572CD886248.jpg), パブリック・ドメイン, リンクによる
そこは日付変更線をまたいだ先、極北のアリューシャン列島・アムチトカ島でした。紅毛碧眼のロシア人。そしてアムチトカ島の原住民。特にロシア人は背も高く獰猛そうな外見(光太夫たちから見るとですが)。おびえた光太夫一行でしたが、彼らは親切に光太夫たちを保護してくれました。この、木も生えない極寒の離島でロシア人は何をしていたのかというと、毛皮漁です。アザラシの毛皮を狩ってロシア本国に持ち帰って稼ぐため滞在していたロシア人はこう言いました、「4年経ったら迎えの船が来る」。
しかしもちろんロシア語なんてわかるわけありません!そのことが光太夫たちの生命を左右しました。言語がわからないことによって、危険や病気に関してなどの情報を得ることができなかった彼ら。その結果一行の命を奪ったのは、凍傷、そして一種の栄養失調です。彼らは必死に言語を学びました。
「あと4年経ったらロシア本国に帰る」。おまじないのように唱えながら暮らしていたロシア人と光太夫たち。しかしなんとここで!迎えに来た船が難破してしまいます。でも彼らはめげませんでした。廃材を活用して船を作り上げ、気合でカムチャツカまでたどり着いたのです。漂流開始から約5年が経過していました。
ロシア本国へ。お役所のたらい回しで西へ、西へ……。
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その後の光太夫一行のコースを一言で言い表すと「壮大なお役所仕事たらい回し」。ロシアの東端に近いカムチャツカ半島から、オホーツク、ヤクーツク、イルクーツク……最終的に日本から7470キロも離れたペテルブルグ、そして皇帝家の避暑地ツァールスコエ・セローまで行き着くわけですが、ともあれこの地球を半周する勢いでのたらい回しの間に、彼らの前に想定外の壁が立ちはだかります。あがいてつかんだ彼らの希望とは。漂流はまだまだ終わりません。
光太夫の前に立ちはだかる、ロシアの政策
どこに行っても「うちじゃちょっとわかんないんで」と、はてしなく西にたらい回しされた光太夫たち。しかし彼ら以前にも、日本人の漂流者はいたのです。ただし、過去の日本人漂流民らは1人として帰ることができませんでした。ロシアにたどり着いたが最後、ロシアの土になったのです。
鎖国日本の漂流民――。実はそれまでの漂流民は日本語学校の教師として、ロシアの若者たちを教育する仕事を与えられていたのです。ほとんど国賓級のセレブ待遇であったものの、キリスト教(ロシア正教)の洗礼を強引に受けさせられ、帰化してしまった彼らは二度と日本に帰ることはできませんでした。「キリスト教国を拒む日本に、キリスト教に触れた日本人を帰すことはできない」という事情もこれに関係していたようです。
それを知った光太夫一行は絶望します。それでも彼らは貴族のサロンでのロビー運動や、役所への働きかけを熱心にやめませんでした。「正月は伊勢だ」と。同情だけでなく、帰国のための支援を求めて。それが固く重い門を開くこととなるのです。
ラクスマンとの出会い。果てしなく西へ
イルクーツクでついに光太夫は希望をつかみます。光太夫一行は貴族の家のサロンや舞踏会に積極的に招かれ、漂流の苦難や体験談を語り、助力者を求めてきたのです。ついにあらわれた後援者、彼の名前はキリル・ラクスマン。博物学者の彼は好奇心いっぱい。「日本ってどんなところだろう!」いつかは自分もついていきたい……それに、光太夫たちをきっと日本に帰すんだ!
このキリル・ラクスマン(スウェーデン名はエリク・ラクスマン)、けっこう大物の学者でした。生まれたのは当時スウェーデン領だったフィンランド。非常に優秀な学者であったキリルは、シベリアのことを調べたいがためにロシアに渡り、女帝エカチェリーナに認められ、帝国サンクトペテルブルグ科学アカデミー会員とまでなったのです。
政府高官や貴族を含め非常に顔が広かったラクスマン。彼の支援を得た光太夫たちは一気に日本への道を突き進みます。リーダーである大黒屋光太夫は仲間たちを残し、代表者の彼はキリル・ラクスマンに連れられてさらに西へ。つまりロシア帝国の首都・ペテルブルグへ。女帝エカチェリーナ2世に謁見して帰国の勅令を得るために。
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洗礼によって「ロシア人」になったメンバーも……。
こんな中で何人も脱落者が出ます。11人が亡くなり、最終的に生き残ったのは5人。日本へ帰国できたのは光太夫を含めてわずかに3人です。一行のうち2人はロシアへ帰化してその骨を北の大地に埋めることを選びました。
鎖国日本がもっとも厳しく対応していたのはそう、キリシタン(キリスト教)です。島原の乱などで反政府勢力の危険思想として幕府に認識されたキリシタン。キリスト教の洗礼を受けたが最後、日本には二度と帰れません。しかしロシアはキリスト教(ロシア正教)国。キリスト教の習慣のもとで生活しています。
光太夫たちは、長引く漂流生活で疲れてもいました。心が弱くなって教会へおもむくようになる者、現地の女性と恋に落ちてしまった者……。キリスト教では(教派によりますが)死に際に神父の懺悔の秘跡を受けなければ天国に行けない、というお決まりがあります。キリシタンになったが最後、伊勢には帰れない――それでも結局一行のうち2人が、重病にかかって周囲のすすめで洗礼を受け、ロシア本国に残ったのです。この2人はその後家庭を持ち、日本語学校の教師としてロシアで生涯を終えました。
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