どうして「慰安婦問題」は解消されないの?歴史系ライターがその謎に挑んでみた
そもそも「従軍慰安婦」とはどういう人たち?
多少汚い表現をすれば「戦時売春婦」という意味に取れるのですが、たいていの人はそんなふうに感じているのではないでしょうか。しかし真相を突き詰めていけば、それは日本の国策によって生まれた必要悪のようなものだったのかも知れません。まずは慰安婦とはどのような人たちだったのか?解説していきましょう。
日中戦争によって大量に動員された慰安婦
昭和12年7月、盧溝橋事件に端を発した武力衝突は拡大の一途を遂げ、それはやがて全面戦争へと突入していくことに。日中戦争と呼ばれる長い戦いの始まりでした。陸軍の思惑と違って戦いは長期化し、最大で100万の日本軍兵士たちが中国大陸へ渡りました。
ところが戦線の拡大に伴って「皇軍の威信を失墜させるような出来事」が頻発しました。のちに支那派遣軍総司令官となる岡村寧次中将が回想録を執筆しています。そのくだりを引用してみましょう。
嘗て聞いたところによれば、北京附近の中国古老は、団匪事変のとき、欧米各国兵が掠奪強姦の限りを尽くしたのに、ただ独り日本兵のみが、軍、風紀森厳にして寸毫も冒すことなかったことを回想し、どうして今の日本兵がかくも変わったのかと痛嘆したという。全く昔と今とどうしてかくも変わったのか。
来陣した中村軍務局長の言によれば、戦地から惨虐行為の写真を家郷に送付する者少からず、郵便法違反として没収したもの既に数百枚に達しているという。好奇心も甚しいというべし。
引用元 「岡村寧次大将資料第一 戦場回想編」より
当時、岡村中将は参謀副長として戦地にいました。将兵たちが各地で略奪や強姦を繰り返し、軍規が緩み切っていたことを示します。そして「皇軍の威信失墜」そして「中国大陸における反日感情の強まり」を危惧した岡村中将が軍慰安所の開設を推進しました。
その数は飛躍的に増大し、各師団にも多くの慰安団が同行するようになりました。ちなみにそれより30年前の日露戦争の頃は、慰安所もなければ強姦事件も発生することはありませんでした。
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高まる慰安婦の需要。しかし数が足りない
昭和17年の陸軍省恩賞課長の報告によれば、中国大陸や南方などで合わせて400もの慰安所が開設されていたそうです。これまでの研究者たちの推算から、おおむね兵30人に対して1人の慰安婦があてがわれ、その数は約5~10万人いたとも。しかしこれだけの数の慰安婦たちを確保するためにどのような方法が取られたのでしょうか?
もちろん日本国内や朝鮮半島内にも、いわゆる【プロ】といわれる女性たちは存在していましたが、総動員したとしても到底人数が足りません。
よく調べもしない人たちが、まるで人狩りのように「慰安婦は強制連行されたもの」と主張することがありますが、それは全然違います。当時の朝鮮半島は植民地といっても日本の在外領土ですし、朝鮮の人たちもすべて日本人扱いでした。無理やり引っ張って連れて行くことはあり得ないのですね。
そこで朝鮮総督府は民間経由で慰安婦を募集しました。いわゆる「女衒(ぜげん)」という業者のことですね。ところがその集め方が大問題だったのです。「試験なしで看護婦にしてやる」「内地でいい仕事がある」と甘言を巧みに使って女性を籠絡したのでした。また親の借金などの理由で人身売買同然に売られた女性も多くいたそう。
よくネットなどでも目にする慰安婦募集の新聞広告があります。それによると月収300円以上とあり、当時の中佐や大佐並みの高給だったことがわかりますね。しかしこれを額面通りに受け取っても良いものなのでしょうか?
広告はすべて日本語で書かれていますね。実は昭和5年に行われた国勢調査では、10~20代の朝鮮人女性の日本語識字率は1~2%程度となっていて、ほとんどの人が日本語の読み書きができなかったことを表しています。となると、必然的に就業するべき女性へ向けた広告ではないことが理解できるでしょう。
ではいったい誰に向けて出された広告なのか?これは朝鮮にいた日本人女衒に対しての「募集」を広告したものと考えるのが自然です。
慰安婦問題における強制性とは?
国内はもとより朝鮮半島でも人身売買は固く禁じられており違法でした。また日本は「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」に批准しており、21歳以下の売春行為も認められてはいなかったのです。
明治43年には「醜業を行わしむる為の婦女売買禁止に関する国際条約」にも批准しており、そこには以下の条文があります。
「何人たるを問はず他人の情欲を満足せしむる為醜業を目的として未成年の婦女を勧誘し誘引し又は拐去したる者は本人の承諾を得たるときと雖、又右犯罪の構成要素たる各行為が異りたる国に亘りて遂行せられたるときと雖、罰せらるべし」
仮に本人の承諾を得ても未成年であれば慰安行為は罰せられると書かれていますね。このように違法な手段を使って慰安婦集めをする業者が多く、それに対して軍も黙認していました。また念の入ったことに、未成年の慰安婦たちを日本の法治圏以外へ移送することも違法でしたが、軍や憲兵の計らいで渡航許可まで出していました。
女衒などの民間業者もたしかに悪い。しかし国や軍が根幹から関わっていて【軍直轄の慰安所】を各地に設置し、違法に連れてこられた人間を放置し黙認するのは国の責任だといっても良いでしょう。
いわゆる「慰安婦制度の強制性」とは強制連行などではなく、奴隷労働ということを意味します。遠い戦地に連れてこられ「自由な外出の禁止、労働時間の強要、自由意志での離職の禁止」などを押し付けられていた環境こそが「強制」だということなのですね。自由な意思で女性が自ら進んで慰安婦となり、自由な意思でいつでも辞めて帰国できるということであれば、ここまで大問題にはならなかったことでしょう。
結論とすれば、たしかに自由意思で慰安婦となった人もいた。しかし違法な手段で連れてこられ本人の意思とは無関係に労働をさせられた人もたくさんいた。ということでしょうか。
ちなみに彼女たちは高給だったとされていますが、支払いは全て現地軍票でした。いわゆる軍隊内で発行されるお金のことですね。そのレートは昭和19年の上海を例に取ると、軍票4千円に対し円の換金率は約8円。まさに詐欺同然でした。
日韓基本条約で個人賠償は済んでいる?
日本の基本的な考え方とすれば、国交を樹立する際の「日韓基本条約」の中で国家賠償は済んでいるという認識ですよね。果たして本当にそうなのか?その経緯を探っていきましょう。
日韓請求権協定が成立した経緯
日韓基本条約は国交を定めた条約であって、「日韓請求権協定」というものが別に結ばれています。「日韓請求権協定で、完全かつ最終的に解決済み」という言葉は、事あるごとに日本政府が使ってきましたが、果たしてその中身はどうなのでしょう?
「我が方の有した在韓財産の膨大なるにかんがみ、韓国側の対日請求は原則として一切放棄させること。」
引用元 1951年外務省アジア2課「日韓両国の基本関係調整に関する方針」より
日本が朝鮮に残した財産が膨大であるため、賠償請求は一切放棄させるように。という方針でした。日本の考え方はまずそこからスタートしています。さらに日韓の代表団が折衝した会談でも、日本側はひたすら「請求権」というワードを避けようとしていますね。日本側の西山代表が以下の言葉を残していました。
「韓国に対するわが側の提供は、あくまでも賠償のように義務的に与えるのではなく、それよりは経済協力という基本的な思考を持っている。」
「請求権の意味が含まれてはいるが、韓国側では請求権の対価という意向があるようだが、わが側ではそのように考えていないし、したがって基本的な思考の差があるが、これは是正調整されなければならないと思う。日本の一方的な義務に立脚して提供することになったら困る。韓国側でこのお金はわれわれが貰わなければならないものだから、勝手にすると言ったら困難だ。」
引用元 「請求権及び経済協力委員会第6次会議」より
これはつまり韓国側からの「請求権」には一切応じずに、経済協力金や独立祝賀金という性格のものにすり替え、条件として飲ませるものでした。日本と早く国交を樹立させ、経済的自立を果たすべく躍起になっていた韓国もまたそれに応じたのでした。