硫黄島の戦いへ至るまで
なぜ硫黄島という小島が日米争奪戦の舞台となり、多くの血が流されることになったのか?まずは硫黄島の戦いへ至るまでの経緯を説明していきましょう。そこには日米双方が少しでも戦況を有利にしようとする思惑が絡んでいたのです。
絶対国防圏マリアナ諸島の失陥
太平洋戦争緒戦は有利に進んでいた日本側の戦況も、アメリカ側の軍備が進んだことによる大攻勢を受けて徐々に日本本土へと圧迫されていました。
日本の大本営は昭和18年9月、戦争指導大綱の中でマリアナ諸島を「絶対確保スヘキ要域」すなわち絶対国防圏として死守する方針に定め、迎え撃つ準備を進めたのです。
しかし翌年6月に起こったマリアナ沖海戦で、日本の虎の子である機動部隊は壊滅。連合艦隊が撤退してしまったためにサイパン島やテニアン島の守備隊は孤立無援の状態に。結局、日本軍守備隊は攻撃を支えきれずに全滅し、マリアナ諸島を奪われる結果となりました。
アメリカ軍は占領したばかりのサイパン島やテニアン島に「超空の要塞」と呼ばれた大型爆撃機B29を進出させ、昭和19年8月には日本本土空襲を開始しています。
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小笠原諸島の重要性とは?
マリアナ諸島を失ってしまえば、東京まで遮るものは何もありません。唯一その進路上に位置していたのが硫黄島を含む小笠原諸島でした。これらの島々をアメリカ軍に奪われてしまえば、日本本土への足掛かりとなる軍事拠点を築かれますし、補給基地ともなります。まさに日本本土の喉元に突き付けられた刃となるのですね。
何より硫黄島はマリアナを飛び立ったB29の動きを監視するための重要拠点でした。アメリカ軍の空襲もまだ昼間精密爆撃がメインだったので、いち早く機影を捉えて連絡すれば本土の防空体制も整うためです。
そこで大本営はマリアナ諸島が奪われる直前、小笠原の父島要塞守備隊を基幹として第109師団を新設しました。師団長には東部軍司令部付として内地にあった栗林忠道中将が新補されました。
栗林を硫黄島の総指揮官に指名したのは、当時首相を務めていた東条英機。その際、彼は栗林に「どうかアッツ島のようにやってくれ」と言ったいう。アッツ島は、栗林が硫黄島へ行く前年の昭和18年5月、米軍の上陸を阻止しようとして死闘を演じ、玉砕という名の全滅を遂げたアリューシャン列島の小島だった。
引用元 梯久美子著「散るぞ悲しき(硫黄島総指揮官・栗林忠道)」より
東条の本音は、勝ってアメリカ軍を撃退など望んでいなくて、2万の兵たちと共に「一日でも長く戦って最期は死んでくれ。」という意味だったのです。
栗林は後方の父島にいて指揮することもできましたが、現場第一主義で部下と共に生死を共にする覚悟のある彼は、自ら率先して硫黄島への着任を決めたのでした。
栗林忠道という人物
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陸軍士官学校第26期卒業の栗林は、陸軍の武官にしては珍しく海外に精通した人物でした。昭和2年に現在も陸軍基地があるフォート・ブリスで学び、その後はカナダ在勤帝国公使館付武官を務めてアメリカでの見識を広めています。
栗林はその目で、アメリカの繁栄ぶりと工業力の豊かさを確かめ、決してアメリカを過小評価しないこと、戦いは避けるべきだということを事あるごとに漏らしていたそうです。
騎兵出身だったため、当時国民が愛唱していた「愛馬行進曲(愛馬進軍歌とも)」を作詞したともいわれています。馬を愛し、たいへん家族思いだった栗林。硫黄島の戦地でしたためた手紙を読んでも、家族や子供らへの愛情がひしひしと感じられるのですね。
一日でも長く持ちこたえるために
昭和19年6月、硫黄島へ着任した栗林はさっそく全島を視察した上で、今後執るべき作戦方針を定めました。上級司令部が示した水際作戦を否定し、敵を島内へ引き入れた上で迎え撃つという作戦を考え出したのです。
これには上級司令部どころか、同じく硫黄島に赴任していた参謀長らも大反対。敵に足場を固めさせた上に内陸の飛行場まで奪われることになるため、到底その意図を理解できなかったからでした。しかし栗林が本意とするところは、あくまで守備隊の持久にあったため、一日でも長く島を確保するためには必要な措置でした。
アメリカ独立記念日にあたる7月4日、アメリカ艦隊は硫黄島に猛烈な艦砲射撃を見舞いました。日本軍側は、持っているわずかばかりの大砲では、水際で到底太刀打ちできないことを思い知らされたのです。
その結果、硫黄島における陣地構築は着々と進行することになりました。昭和19年暮れから洞窟陣地の構築を開始し、砲爆撃下においても地表に身体をさらすことなく、陣内の移動や指揮連絡が充分に出来るように工夫しました。
硫黄島は文字通り火山島ですから、非常に地熱が高く、火山性ガスが至る所で噴気しているため、作業は難航したそうです。ましてや川も水場もない島ですから、飲み水の確保には苦労が多かったことでしょう。
昭和20年1月末までに総延長18キロの洞窟陣地が完成し、まるで蟻の巣のように張り巡らされた通路は、数で劣勢な日本軍の強力な武器となりました。そしていよいよアメリカ軍が上陸してくる日を迎えます。
アメリカ軍の上陸と日本軍の敢闘
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昭和20年2月16日、ついにアメリカ軍の来攻を迎えます。日本側の総兵力は陸海軍合わせて約2万3千人。対して上陸してくるアメリカ軍は総兵力約11万人。ほぼ4倍の兵力差がありながら、日本軍はいかに敢闘したのか?時系列で見ていきましょう。殺伐とした戦いの光景を描写するには心苦しいのですが、どうかご容赦下さい。
アメリカ軍はなぜ硫黄島を奪おうとしたのか?
アメリカ側が硫黄島を何としても攻略したかった理由があります。すでに昭和18年9月の時点で統合戦争計画委員会において議題に挙げられており、平地が広く、飛行場の拡張に向いている硫黄島の確保が必要不可欠だとされていました。
マリアナから飛んでくるB29の護衛のためにP-51などの戦闘機を配置させ、護衛任務に就かせること。そしてマリアナから日本本土まで3,000キロと距離が長く、緊急離着陸地のために硫黄島を活用したいという思惑があったのです。