奈良時代平安時代日本の歴史

「長岡京」とは?平城京と平安京の間に10年間だけ存在した幻の都を詳しく解説

日本の都(みやこ)があった場所といえば?奈良の「平城京」と京都の「平安京」の2つは、歴史にそれほど詳しくない方でもすぐに思い浮かぶと思います。では「長岡京」は?え?そんなのあったっけ?と首をかしげてしまう人も少なくない模様。社会科の教科書でも大きくクローズアップされることが多いのは平城京・平安京ですが、実は長岡京も歴史上非常に重要な役割を果たした都なのです。今回はそんな不思議な都・長岡京について詳しく解説してまいります。

いつ頃・どこにあった?なぜ遷都?長岡京の基礎知識

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長岡京(ながおかきょう)とは、紀元前8世紀後半、奈良の平城京から遷された都の名前です。都として機能していた期間が非常に短いため、一般的な知名度は平城京・平安京ほどではありません。しかし、その後の遷都先である平安京の基礎を作り、古代から中世へと国家の地盤づくりに一役買った重要な都であったと言われています。いったいどんな都だったのか、長岡京の基本的なデータを見ていくといたしましょう。

長岡京について(1)時期と場所は?

京都府の南西部。現在、京都御所がある京都市中心部より少し南部に長岡京市(ながおかきょうし)という名前の都市があります。もちろん名前の由来は、今回のテーマでもある「長岡京」から。古い歴史を持つ緑豊かな街です。

この一帯に、今からおよそ1200年前、奈良の平城京から都が遷されます。

時は延暦(えんりゃく)3年(784年)の11月11日。平城京から北へおよそ40㎞ほどの場所に、都が遷されることとなりました。

北部や西部には段丘が広がり、東側を流れる桂川や宇治川との間に挟まれた平地。現在は長岡京市と、すぐお隣の日向市、そして京都市西京区にかかる場所に、長岡京が置かれたと考えられています。

琵琶湖から流れる唯一の河川・淀川という水運の利点もある絶好の場所。川と台地に囲まれた平らかな土地に、東西約4.3㎞、南北に5.3㎞と、平城京・平安京と肩を並べるほどの大きさを誇る広大な都市が築かれました。

長岡京へ遷都される前の都は、言うまでもなくあの平城京(へいじょうきょう)です。

平城京は和銅3年(710年)、現在の奈良県奈良市とお隣の大和郡山市付近に置かれた都。これを境に、時代は飛鳥時代から奈良時代へと移っていきます。

それから74年余り。繁栄を続ける平城京から、当時はほとんど何もない状態だった山城国に都を移すことになります。

長岡京について(2)遷都の理由は?

平城京からの遷都を決断したのは、即位してまだ間もない桓武天皇(かんむてんのう)でした。

ではなぜ、74年も続いた都の場所をわざわざ移すことに?平城京からの遷都の理由はいくつかあったようです。

まず、平城京の地理的な問題点を解消する目的が挙げられます。

平城京には水路がなく、都の人口が増えるにつれて物資の運搬の効率が問題になっていました。また、下水処理など衛生面でも不安が広がっていたようです。大きな都には水が不可欠。船による物資の運搬が可能で、下水問題も解決しやすい大きな河川の近くへの遷都は人々の願いでもありました。

これに加えてもうひとつ。他の権力の影響を交わす目的があったともいわれています。

奈良時代の後半、都では寺院が大きな影響力を持つようになっていました。天皇中心の世の中を維持したい桓武天皇にとって望ましい状況ではありません。そこで、既に仏教の強い力が定着していた平城京から別の場所に都を移し、寺院と距離を置こうとしたのです。

さらにもうひとつ。桓武天皇は天皇家の他の系列からの圧力にも警戒を強めていました。

大化の改新で大活躍したスーパースター・中大兄皇子こと天智天皇から代を重ねること100年余り。天皇家は主に天智天皇系列と、その弟にあたる天武天皇系列の2系統に分かれており、ここ数十年間は天武天皇系が強い権力を持っていました。桓武天皇の父親にあたる光仁天皇は久しぶりの天智天皇系の出身だったのです。

強大な力を持ち続けている天武天皇系の影響を受けずに統治をおこないたい。そのためにも、別の場所に新しい都を築いて一新したい……。桓武天皇はそう考えていたのかもしれません。

長岡京について(3)なぜ10年間だけ?

平城京からの遷都を行った延暦3年(784年)当時、長岡京が築かれた土地には、地方豪族の集落がぽつりぽつりとある程度で特に何もありませんでした。

この場所に、天皇の住居となる長岡宮に続く南北の大路が通り、その通りを中心に縦横に大きな道を造営。長岡宮から見て左側が左京、右側を右京とし、東西に広がる碁盤の目のような街並みが形成されていきます。そしてそれぞれの区画の中に役所や貴族たちの住居などが割り振られていたようです。

遷都は非常に短期間に行われたとみられています。水路を活かして、長岡京は瞬く間に各地から人や物資が行き来する政治や経済の中心地に。平城京時代に朝廷と肩を並べるほどになっていた他勢力の影響を遠ざけることもでき、桓武天皇が目指した改革は一応の成功をおさめたといえそうです。

順風満帆とみられた長岡京への遷都でしたが、遷都後まもなく、事件が起きてしまいます。桓武天皇の側近で優秀な部下であった藤原種継(たねつぐ)が暗殺されてしまったのです。

種継は遷都推進派チームの中核を担う人物。首謀者は誰だ?長岡京への遷都をよく思わない連中の仕業か?遷都反対派の権力者たちが次々と疑われ、しまいには桓武天皇の弟の早良(さわら)親王にも疑惑の目が向けられます。早良親王は無実を訴え続けましたが流罪となり、衰弱して死んでしまいました。

この後、桓武天皇の夫人や実母が相次いで亡くなったり、周辺で次々と不幸なことが続きます。さらに2度にわたる洪水が発生。その影響で疫病が蔓延し飢饉が起きて人々を苦しめることに。これは早良親王のたたりか怨念か?そんな噂がたつようになります。

怨念はともかくとして、地形上、川の増水による被害は避けられません。重臣たちによる進言もあって、桓武天皇はやむなく、別の場所への遷都を決めたのです。

延暦13年(794年)、長岡京より少し北方の葛野郡(かどのぐん)と呼ばれる地域周辺への遷都(平安京)が行われます。建物はすべて取り払われ、長岡京は忘れられた都となっていったのです。

現在の長岡京は?幻の都の歴史を巡るスポットをご紹介

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豊かな水運を構え、後の平安京の礎にもなったとされる長岡京時代。天皇中心の理想的な都を築くことができたはずなのに、暗殺事件や怨念騒動、度重なる洪水や飢饉に見舞われ、わずか10年で引っ越しせざるを得なかったとは、桓武天皇もさぞ心残りだったでしょう。その後、長岡京はすっかり忘れ去られ、昭和30年代頃まで「幻の都」と呼ばれていたのだそうです。近年に入って、残されたわずかな痕跡から調査研究がすすめられ、全容が明らかになりつつある長岡京。次に、そんな長岡京に縁のあるスポットを2か所、ご紹介します。

現在は市民の憩いの場に:長岡宮跡大極殿公園

長岡京の中心地は長岡宮(ながおかきゅう) と呼ばれています。そんな長岡宮の痕跡が残る場所が、長岡宮跡大極殿公園です。

長岡京の中心・天皇が政治を行うための施設の数々が置かれていた場所、いわゆる大内裏があったとされる場所は、現在の京都府向日市にあたります。昭和30年代に詳細な調査が行われ、1965年(昭和40年)に大極殿跡が史跡公園になりました。

残念ながら当時の建物は残っていませんが、柱を建てるための礎石などが市内に数多く残されているところから、この場所にとても大きな建物が建てられていたと考えらえています。

阪急電鉄の西向日駅からのんびり歩いて7~8分。周辺には長岡宮の痕跡を知ることができる史跡が点在していますので、街中を散策しながら幻の都の条坊(都の市街区画・道すじ)を思い描くのもおすすめです。

聖徳太子が建立したとされる名刹:乙訓寺

乙訓寺(おとくにでら)は京都府長岡京市の今里というところに今も残る古刹。創建は長岡京が築かれるより100年以上も前の飛鳥時代であるといわれています。推古天皇の命によって聖徳太子が建立したと伝わっている由緒ある寺院です。

詳しい情報は残されていませんが、境内には奈良時代のものと思われる瓦などが残されているため、少なくとも長岡京遷都の時代には存在していたとされています。

長岡京への遷都の際には大々的に改築され、都の鎮守に。さらに、あの「藤原種継暗殺事件」の首謀者として疑われた早良親王が一時期幽閉されていた場所ともいわれています。1200年もの間、静かにこの場所に佇み、時代の流れを見守り続けてきた寺院。政治の中心が平安京へ遷った後も、同じ場所でずっと時を刻み続けてきました。

乙訓寺はさらにもうひとつ、弘仁2年(811年)、弘法大師の名で知られるあの空海が別当(寺院の役職の一種)を務めた寺としても知られています。記録による弘仁3年に、空海とともに遣唐使の一員として唐へ渡った最澄がこの寺を訪ねてきたことがあるのだそうです。

現代では、境内に2000株以上もの牡丹が植えられ、別名「牡丹寺」として親しまれています。ゴールデンウィークの頃には地元市民だけでなく全国から、美しい牡丹を一目見ようという観光客でにぎわうのだそうです。

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