【飛脚】はこうして生まれた。その歴史をのぞいてみよう
日本の通信史を見てみると、江戸時代になって飛脚が整備され商業化されてから、やっと庶民の誰もが使えるツールになりました。では、それ以前はどうだったのでしょうか?飛脚が生まれるまでの歴史と、飛脚が誕生してからの流れをご紹介していきましょう。
あくまで公用で、庶民には使えなかった駅伝制
大和朝廷が出現する以前、道と呼べるものはまったく整備すらされていない「けもの道」のような代物しかありませんでした。そこで朝廷が飛鳥京や藤原京を造営し、海から陸揚げされた物資の運搬が頻繁になると、河内国や大和国を結ぶ幹線道路が整備されました。
やがて奈良時代、律令制が施行されると山陽道や東海道などの7本の幹線道路(五畿七道)が新設・整備されて駅伝制が敷かれます。地方の産物を効率よく都へ運び、役人や軍勢の移動がしやすくなるようにしたのです。いわば地方支配を確実に行うためだったのですね。
主要な幹線道路には駅制が敷かれました。30里(約16キロメートル)ごとに駅を置き、各駅に伝馬(移動や運搬のための馬)を確保して通信手段として用いていたのです。
また公用のための宿泊施設なども準備し、道路上には関剗(せきさん)という警備施設を置いて非常時の警備にあたっていました。万が一、公用旅行者が事故や災難に遭ってはいけないように治安確保に努めていたのです。
かたや、一般庶民たちが旅行する時にはどうだったのでしょうか?庶民は食糧や寝具まで携帯して旅行するしかなく、かなりの負担があったことでしょう。必然的に行き倒れや病気になる者も多く、当時の朝廷は、彼らの救済のために詔(みことのり)を出したという記録があります。
平安時代には駅伝制が崩壊し、代わってそれぞれの国の国司たちが、運搬の馬や施設を準備していたそうです。また地方の荘園から物資を輸送するために、より安く運べる水運が発達したのもこの頃のことですね。
関所の急増によって、限られる通信手段
鎌倉時代になると、政治が京都と鎌倉の二元体制になったため、この二拠点間で飛脚が整備されました。絶えず朝廷の情勢を知っておかねばならない鎌倉幕府は、京都の出先機関ともいえる六波羅探題と密に連絡を取り合っていたようです。
鎌倉幕府の公式記録である「吾妻鏡」には、その様子が克明に記録されていますね。
「申刻、赤木左衛門尉平忠光、六波羅飛脚として参著す。甘日未刻京を出て、四箇日にて馳せ着く。
殆ど飛鳥の如し。即ち前の武州の庭上に明いて馬を下る。」
引用元 「吾妻鏡」暦仁二年五月二十三日の条
室町時代になると、近畿圏では馬借や車借といった運送業者が多く出現し、物資の輸送を担いました。そういった業者に手紙を託す者も多かったようですね。
ところが戦国時代に突入すると、領国間での行き来が難しくなり、通信手段も非常に限られたものになりました。関所が全国的に急増したのもこの頃のこと。安全保障の意味もありましたが、関銭を徴集するという意図もあり、輸送業者どころか一般庶民も非常に困っていたそうです。
ちなみに当時、伊勢国には120もの関所があり、伊勢神宮へ参拝する者の10人に1人は、関銭が払えなくて途中で引き返してきたともいわれています。
しかし信長や秀吉の時代になってくると、全国的に不要な関所は撤廃され、治安の回復などと相まって、交通の発展と商品流通の発達とを推進し、交通量は増大していきました。
一般庶民が利用できるようになった江戸時代の飛脚
江戸時代初期には、五街道と脇街道の宿駅制が定められ、大名の参勤交代制と相まって、急速に各街道や伝馬制度が整備されていきました。
そうした交通政策の進展とともに、時代のニーズがうまく合致して、飛脚という商業形態が誕生したのです。国家の伝馬制度をうまく利用して、手紙だけでなく貨幣や荷物の運送までも行い、現在の宅急便の原型ともいえる業態となりました。
また、江戸・京都・大坂を中心とする飛脚業者たちは、「定飛脚問屋仲間」として幕府から公認されて特別な保護を受けただけでなく、その業態を全国へと拡大させて活躍の場を伸ばしていきました。
幕府に保護されたということは、公儀のお役目を担うという面が大きかったのですが、いっぽう商人や一般庶民が利用する機会も増えていきます。
江戸時代は、庶民の旅行が一般的になった時代ですが、旅先で買い込んだ土産物を飛脚に託し、自分たちは楽して帰るといったことが頻繁に行われていたようです。現代でも、旅先からクール宅急便で新鮮な果物を送ったりしますよね。
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江戸時代に活躍した飛脚には、いくつかのカテゴリーがありました。公儀からお役目仰せつかった飛脚や、一般庶民でも利用できる飛脚など。少し細かく見ていきたいと思います。
江戸時代の駅伝マラソン【継飛脚】
継飛脚(つぎびきゃく)は、幕府専用の飛脚というべきもので、一般庶民はおろか大名ですら利用不可でした。
始まりは1619年のこと。京都所司代をしていた板倉重宗が、京都の馬借に人足を出させて、大津まで継ぎ立てを行ったとされています。継ぎ立てとは、まるで駅伝マラソンのように複数のランナー(次飛脚人足)で中継し、書状を運ぶというもの。
さらに時代は下り、1632年頃には東海道の継飛脚が整備され、1669年以降には各地の運送業者に人足を出させることによって、この継飛脚は全国展開されていきました。中継点ごとに人足を待機させていたため、中継点から中継点までの二里(約6キロ)だけ全力疾走すれば良いわけです。
継飛脚の運ぶ書状は非常に重要なもので、将軍の朱印状や幕府からの公文書など、いずれも最優先されるものばかり。そのため厳重な関所の通過などもスルーできますし、この継飛脚が通る際には、一般庶民は広く道を譲らねばなりませんでした。
継飛脚の地方版【七里飛脚】
地方の各藩には、藩ごとの伝馬制度があったのですが、幕府の威令を行き届かせるには絶対的にスピードが不足していました。
その欠陥を補うため、幕府は七里飛脚(または大名飛脚)の制度を定めました。街道の七里(約28キロ)ごとに飛脚を中継させ、公儀の指示を伝えたのです。
七里飛脚が設置された理由について、出雲松江藩主、松平直政はこう述べています。
「若シ異変アル時ハ、公ヨリ急速ニ江戸ヘ御注進アルベク、猶又、出雲ハ江戸ト遠ク隔タリシ国ナレバ、自然其外ニモ火急ナル御用向モアルベク、彼是ノ御便利ノ為ニ、兼テ道中筋ヘ飛脚ノ者ヲ出置カントノ訳ニテ、幕府ヨリ御直人ヲ以テ七里七里ニ附置カレ、御状箱昼夜の別ナク、御朱印送同様ノ心得テ継立ル事トナレリ。」
引用元 「松江藩藩祖御事績」より
現代語訳
「万が一、出雲国に異変がある時には、藩主より江戸へ急いで報告しなければならない。出雲は江戸から遠い国でもあるし、他に急ぎの用向きがあった際にも、便利が良いように街道の道筋に飛脚を置いた方が良い。
かねてからの幕府からの指示によって、七里ごとに飛脚を中継させて、昼夜の別なく御状箱を継ぎ立てすることになった。」