商人や一般庶民も利用できた【三度飛脚】
江戸と大坂を月に3回往復したことから、三度飛脚と呼ばれています。歴史は意外に古く、豊臣氏が滅んだ直後に創業されたといいますね。
元来は大坂城代や奉行などの信書を江戸へ運搬していたとされていますが、時代が下るにつれて、商人や町人たちの私信物も扱うようになりました。
ちなみに大坂~江戸間の運賃は、4匁(約15グラム)が1両。現在の価値でいえば15万円ほどになるでしょうか。重量が増すほど運賃は高くなりますから、実際には裕福な商人でないと、なかなか利用できなかったことがわかりますね。大坂~江戸間は約8日間ほどで結んでいたそうです。
三度飛脚を商う業者たちは、民間飛脚も合わせて営んでいましたから、相当に繁盛し、最盛期には京都では100軒もの飛脚問屋がひしめいていました。
しかし、街道の中継点(伝馬宿)はあくまで公設ですから、公用でない文書や荷物は取り扱うことが出来ません。そこで三度飛脚業者は、公用の荷物に民間のものを紛れ込ませて持ち込んでいたそうです。
飛脚問屋の隆盛と衰退
By フェリーチェ・ベアト – The New York Public Library, “Courier or postman”. Accessed 18 June 2008., パブリック・ドメイン, Link
飛脚といっても、何も手紙や小荷物を運ぶだけではありませんでした。飛脚問屋の中には様々は業態を展開し、繁栄していく者もありました。そんな飛脚の繁栄と衰退の様子を見ていきましょう。
飛脚は儲かる!異業種からも次々に参入
江戸時代を通じて貨幣経済が発達し、商品流通が盛んになると、飛脚の役割は益々重要になっていきました。世間のニーズに応えること。それはいわゆる儲かるということなのです。
元々は違う家業を生業としている商人が、飛脚業に鞍替えして店を出すということも頻繁にあり、まさに異業種界からの参入が珍しくはありませんでした。
天明年間の飛脚業者だった安井宗二が書き残していますね。
「いつみや、大坂屋はとうふや、八百屋にて、備前屋は茶碗屋成りしが段々と内をひろげ、いつしか飛脚屋ばかりに成しと見えたり。」
引用元 「家声録」逓信博物館蔵
また、江戸時代はコメの先物取引が盛んになりましたが、米飛脚なるものも存在し、日々変わる相場の動きを逐一知らせるために、コメの値が定まるや、全力で走って伝えにいったそうです。
繁盛する飛脚業者は、金融業を副業とする者もたくさんいました。物品の輸送途中に金を貸し、その帰りに利息を請け負う。という合理的な方法が取れるからですね。
飛脚の終焉。郵便制度の登場
やがて明治維新となり、西洋から新しい制度や文化が入ってくるようになると、飛脚といった旧態依然とした業種も終焉の時を迎えることになりました。
明治3年、前島密が駅逓権正に就任。前島はかねてから「飛脚では日数も掛かるし費用も高い。誰もが安価に信書を出せるようにすべきだ。」と考えていました。
そこで前島は自分の考えを実現するべく、民部・大蔵両省会議に対して、郵便創業に関する建議を提出します。「郵便」という語句は、この頃から使い始められました。
明治4年には「郵便創業の布告」が太政官から発せられ、同年のうちに日本における近代郵便が発足したのです。政府主導で飛脚業者の説得に努めた結果、ようやく了承を得たため、明治6年3月、太政官布告をもって「郵便規則」を公布しました。
「明治6年5月1日より信書の逓送は、駅逓頭の特任に帰せしめ、他に何人を問わず、一切信書の逓送を禁止す」
これにより、約260年近く続いた飛脚制度はなくなり、多くの飛脚業者たちが廃業を余儀なくされました。
しかし、飛脚業者たちが完全になくなったわけではありません。三度飛脚の業者仲間同士で出資し、陸運元会社という企業を設立したのです。鉄道敷設の広がりに合わせて、官営郵便物や一般貨物を輸送する運送請負業者として活躍したのでした。
やがてその会社は名を変えて、現代まで残ることになりました。そう誰もが知る「日本通運」がそれですね。
飛脚はまさに江戸時代のアスリート!
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走るイケメン宅配ドライバー「佐川男子」が話題になっていましたが、飛脚はとにかく走るのが仕事。少しでも効率よく、少しでも疲れないように自助努力する様は、現代でも同じではないでしょうか。そういった意味では、まさに江戸時代のアスリートと呼んでもおかしくないような気がします。