室町時代戦国時代日本の歴史

島津の名を天下に知らしめた名君「島津義久」その生涯と強さに迫る

戦国時代、九州に覇を唱えたのが島津氏ですが、その当主である島津義久(しまづよしひさ)は、祖先伝来の地・薩摩から、一時は九州全土をほぼ掌握するまでに勢力を広げました。その後は豊臣秀吉に屈しましたが、義久は、生き残りをかけた戦国時代の激流を巧みに泳ぎ渡っていきます。彼の世渡り術とはどんなものだったのか、そして、彼の強さの根本にあった優秀な弟たちとの関わりなどについてもご紹介していきましょう。

島津四兄弟の長男として、九州統一へ乗り出す

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島津義久は島津氏の当主となるべくして誕生しましたが、幼いころは大人しい性格だったそうです。しかし、彼は四兄弟の長男として、やがて優れた統率力を発揮し、島津氏を繁栄に導いていくこととなります。若かりし時代の彼について見ていくことにしましょう。

大人しい少年だったが、祖父からの評価は高かった

島津義久は、天文2(1533)年に島津貴久(しまづたかひさ)の長男として誕生しました。1歳違いに織田信長、3歳違いに豊臣秀吉がおり、その辺りの年代と考えてくださいね。

鎌倉時代から続く歴史を持つ島津氏の16代当主となる義久ですが、その性格は、少年時代はとてもおとなしかったそうです。そのため、当主としての資質を心配されることもありましたが、名君と謳われた祖父・島津忠良(しまづただよし)は、孫の器を的確に見抜いていました。

忠良は4人の孫たちそれぞれに人物評を与えているのですが、弟たちの武勇を評する一方で、義久に関しては「三州(薩摩・大隅・日向)の総大将たる徳が備わっている」としました。そして、この祖父の評価が当たっていたことは、後の義久の姿からもわかります。

祖父の予言的中:三州を統一する

父に従い、薩摩の統一に乗り出した義久は、永禄9(1566)年には家督を継ぎ、島津氏の第16代当主となります。そして4年後には薩摩を統一し、天正4(1576)年には祖父の予言どおり、三州を統一するまでになったのです。

彼の快進撃を支えたのは、武勇に長けた3人の弟たちと優秀な家臣団でした。戦国最強との呼び声高い島津義弘(しまづよしひろ)はすぐ下の弟で、歳久(としひさ)家久(いえひさ)らその下の弟たちもまた、その武勇をもって各地で活躍しました。義久が戦場で前面に出ることはあまりありませんでしたが、彼は有能な弟たちをうまく使う術を心得ていたと考えられます。

母の違う弟へ見せた気づかい

島津四兄弟と呼ばれた義久たちでしたが、上の3人は正室から生まれ、末弟の家久だけは側室から生まれた子でした。正室腹か側室腹かでは待遇が大きく違ってくるのが戦国時代の常で、そうした意識が自然と人々に植え付けられていたのです。

狩りに出かけた四兄弟が、馬を眺めて一休みしていた時のこと。

三男の歳久が、「馬の毛色は母馬に似ています。人間もきっと同じことでしょう」と言いました。ここには、暗に家久だけが母の違うことを当てこする意味がこめられていたのです。

義久は歳久の意図を察し、うつむく末弟・家久の表情を見ると、そっと口を開きました。

「そうでもないと思うぞ。父に似るものだってあるだろう。それに、人には何より徳があるのだから、それを磨けば、誰だってすぐれた人間になれるものだ」

長兄の心遣いに感激した家久は、以後、いっそう学問と武芸に励み、次兄・義弘にもひけをとらない立派な武将に成長しました。

歳久をやんわりとたしなめ、家久をそっと気遣った義久。その器量はやはり、祖父が見込んだとおり、総大将たるにふさわしいものだったのです。

島津のお家芸「釣り野伏せ」を考案

島津の合戦に関しては、義久の名前よりも弟たちの武勇の方が多く伝わっています。

しかし、義久が指揮を執り、強敵相手に大勝を収めた天正6(1578)年の「耳川の戦い」こそ、島津氏が勢いづく契機となりました。

耳川の戦いの相手は、当時九州で随一の力を誇った大友氏でした。新進気鋭の島津氏が立ち向かえるかどうかは正直微妙と言えるほどの強敵でしたが、ここで義久は、後に島津のお家芸となる「釣り野伏せ(つりのぶせ)」という戦法を考案し、大友軍を迎え撃ったのです。

軍を3つに分けた義久は、2つを左右に伏せさせ、敵から隠れるように命じます。そして残りの1つの隊が敵に攻撃を仕掛け、敗走と見せかけて後退し、追撃してきた敵を味方が隠れているあたりまで引きつけさせたのです。あとは、隠れていた2隊が一気に攻撃を仕掛け、逃げるふりをした1隊も反撃に転じ、これで大軍の大友勢を壊滅状態に追い込み、大勝利を収めたのでした。

この戦いの結果、大友氏は主力武将を多く討ち取られ、力を低下させることになりました。一方、島津勢は勢いに乗り、このまま九州制覇へ向けて動き出すこととなったのです。

九州制覇の夢は、秀吉の前に潰える

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大友氏を破って勢いに乗った義久率いる島津氏は、龍造寺氏を打ち破り、その勢力を九州北部へ広げ、やがて全土掌握目前にまで至ります。ところが、そこに待ったをかけたのが、天下統一へ邁進する豊臣秀吉でした。大友氏の要請によって始まった秀吉による九州征伐のターゲットは、島津氏だったのです。秀吉の大軍勢の前に、義久はいったいどんな策を講じたのでしょうか。

強敵・龍造寺氏にも勝利し、九州掌握が目前に

大友氏を耳川の戦いで撃破した後、義久は次なる敵に挑みます。それは、「肥前(ひぜん/佐賀県、長崎県)の熊」と呼ばれ、周辺諸将を震え上がらせた武将・龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)でした。

龍造寺氏に圧迫されて助けを求めてきた有馬氏に応える形で、義久は弟・家久を派遣し、天正12(1584)年に島津・有馬連合軍が龍造寺隆信軍と激突します。これが「沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)」でした。

当初、5倍近くの兵力差があり、龍造寺の勝利は確実視されていました。しかし、義久に忠誠を誓い、手足となって働くことをいとわない家久の指揮は見事で、見事に連合軍は勝利を収めることとなったのです。これで龍造寺隆信を討ち取った島津氏の力はさらに増し、肥前だけではなく、肥後(ひご/熊本県)や筑前(ちくぜん/福岡県西部)をも平定し、その勢力は九州全土を飲み込むまでになりました。

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