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【世界遺産】悠久のロマン、エジプトの「アブシンベル神殿」とは?歴史などわかりやすく解説

エジプトは古代史に燦然と輝くエジプト文明の発祥の地です。有名なスフィンクスやピラミッドなど、その独特の美しい遺跡はすべての人を魅了してやまないですよね。その中でも壮大な規模をほこるアブシンベル神殿は、名前は知らなくてもテレビや写真などでよく見かけます。そのアブシンベル神殿の内容や創建した王様のことを知りたいと思いませんか?

まず古代エジプト文明を知ろう

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歴史の教科書を開くと最初に出てくるのが「エジプト文明」と「メソポタミア文明」。このふたつの文明をあわせて「オリエント文明」とも言われていますね。そして「インダス文明」と「黄河文明」を含めて「世界四大文明」と言われているのですよ。

古代エジプト文明の歴史は?

エジプト文明は色々な説はありますが、だいたい「紀元前3000年頃」(王の名前で年が書かれているために誤差がある)第1王朝からはじまって以下のような流れとなりますね。

エジプト原始王朝時代(黎明期、上エジプト、下エジプト)
エジプト初期王朝時代(第1 – 2王朝)
〇エジプト古王国時代(第3 – 6王朝)
〇エジプト第1中間期(第7 – 10王朝)
〇エジプト中王国時代(第11 – 12王朝)
エジプト第2中間期(第13 – 17王朝)
エジプト新王国時代(第18 – 20王朝)
エジプト第3中間期(大司祭国家、第21 – 26王朝)
エジプト末期王朝(第27 – 31王朝)
プトレマイオス朝(紀元前30年・共和制ローマによって滅亡)

そもそもエジプトという国は、今も昔も砂漠の国です。その砂漠の中に1本雄大に流れる「ナイル川」。そのナイル川は春になると増水して肥沃な土を運んで来るのですよ。そこの土地に人は住んで農耕をしていたのですね。古代エジプトは、元々は上流のところに「上エジプト」下流のデルタ地方に「下エジプト」というふたつの王朝が生まれたのですよ。それが「エジプト新王国(紀元前1570年-紀元前1070年)」の時代に統合されて「上下エジプト」となったのですね。その時代に、今回のアブシンベル神殿を作ったラムセス2世は生まれて王(ファラオ)となりました。

古代エジプト文明の暮しはどんなだったんだろう?

他の文明と違ってナイル川という1本の川以外は砂漠なので、あまり他からの侵攻なども少なかったために土地を守るための城壁都市というのはないようですね。砂漠の土地は「死の土地」と呼ばれて出て行くことも少なかったようで、そういう意味では内紛以外は穏やかな文明だったようです。よく「母なるナイル」という言葉を聞きますが、まさしくその通りだったのですね。

毎年春に起きるナイル川の氾濫を正確に予測するために「天文学」が発展して「太陽暦」が作られたのですね。そして氾濫が終わって農地を元通り配分しなくてはならないために「測量術」「幾何学」が発達したのですよ。古代エジプトの歴史や生活を記録するために確立したワディ・エル・ホル文字と原シナイ文字(カナン文字)が、世界で使われているアルファベット文字の起源となったといわれています。

アブシンベル神殿を知ろう

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実は現在の神殿はオリジナルではありません。「アスワンハイダム」が建築される時に水没する運命にありましたが、1960年に「ユネスコ」は遺跡を救うために世界的なキャンペーンを開始して救って、ダムができたためにできた人造の「ナセル湖」のほとりに正確に移転復元されました。この工事がきっかけで世界の自然や歴史的・文化的な遺産を後世に残そうとして「世界遺産」というものを作ることになったのですね。そのオリジナルの神殿はどんなだったのでしょうか。

アブシンベル神殿の歴史

古代エジプト時代のエジプト王国の国境はアスワンまででした。そのアスワンの南にある広大な大地はヌビアと呼ばれていたのですね。その土地は金や銅がとれていてエジプトは領地にしようと度々遠征をしていたといいますよ。そしてエジプト新王国第19王朝のファラオ(王)である「ラムセス2世」がBC1250年頃に、砂岩をくり貫いた「岩窟神殿」を造ったのがアブシンベル神殿なのですね。愛するお妃の「ネフェルタリ」が生まれ故郷だから建造したともいわれています。

1813年、長い年月が過ぎて砂に埋もれていたアブシンベル神殿を、東洋学者のスイス人「ブルックルハルト」が土地の人の案内で発見。その後、友人であるイタリア人「ベルツォーニ」と、イギリス人3人が発掘を始め、1815年にようやく入り口にたどり着きました。

『世界ふしぎ発見』で有名な「吉村作治」さんの監修本「古代エジプト探検史」には、ベルツォーニ達は、砂に埋もれていたために「王家の墓のように盗掘されていないだろうから、さぞやお宝があるだろう」と期待していたものの、そういう埋葬品などがなくてガッカリしたということが書かれていますね。しかし「鷹の頭をした実物大のライオン像2・小さな坐像1・扉についていた銅製品の破片」をしっかり持って帰り、現在は「大英博物館」にあります。

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紫蘭