その他の国の歴史中東

国や民族がたくさん出てきて難解な「古代オリエント」5分でわかる古代オリエントの流れ

古代オリエント(Ancient Orient)とは、現在「中東地域」と呼ばれているあたりにおきた古代文明の総称です。古代メソポタミアや古代ペルシア、古代エジプト文明も含めて「古代オリエント」と呼ぶことが多く、年代も地域も広大なため、全体像がつかみにくい印象を受けがちです。そこで今回は、ざっくり且つ詳しくわかりやすく、古代オリエントの流れをまとめてみたいと思います。

古代オリエントの流れ(1)メソポタミア文明とシュメール人

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オリエント(Orient)とは「東方にある世界」「日が昇る方角」を指す言葉。古代史を表す「古代オリエント」は、一般的にはローマから見て東方にある世界のことを表しています。そんな古代オリエントを代表する文明がメソポタミア文明。古代オリエントの創成期を飾った国や民族を駆け足で見ていきましょう。

紀元前3500年頃~:シュメール人登場

チグリス川とユーフラテス川という2つの大河の間の肥沃な大地には、古くから人々の暮らしがありました。現在のイラク周辺の広い地域です。

ここに、シュメール人という民族がやってきて小さな集落を作って暮らし始めます。紀元前6000年ほど前からそのような暮らしがあったとも言われていますが、本格的な都市文明が成立したのはだいたい紀元前3500年頃。メソポタミアを語るうえで欠かすことのできない民族です。

灌漑農業を行っていた彼らの集落の規模は徐々に大きくなっていき、政治や経済の仕組みが作られ、神事も行われるようになっていくつもの都市国家が誕生。楔形文字(くさびがたもじ)を用いて様々な記録もとっていました。

さらにそれら都市国家は徐々につながりを見せるようになり、ウル第一王朝と呼ばれるひとつの王国になっていきます。

紀元前1900年頃~:アッカド王国と古バビロニア王国

ウル第一王朝の力が弱まると、代わりにアッカド人という民族が台頭します。アッカド人たちはシュメール人のテリトリーに隣接する形で紀元前3000年頃から暮らしていましたが、入れ替わるように勢力を強めていきました。

このアッカド王国(アッカド帝国)のサルゴン1世という王様の頃、メソポタミア一帯を統一して広い領地を治めるようになります。紀元前2200年前後のことです。しかし長くは続かず、おおよそ150年ほどの後衰退。再びウル王朝(第三王朝)が一帯を統治します。

そして紀元前1900年頃、セム系遊牧民アムル人たちがメソポタミアに侵入。バビロンという都市を作ります。これが古バビロニア王国(バビロン第一王朝)。「目には目を、歯には歯を」というハンムラビ法典を唱えたハンムラビ王が即位していたあの王国です。

紀元前1600年頃~:ヒッタイト・カッシート・ミタンニ

古バビロニア王国は強大な国となりました。しかしその栄光も長くは続きません。300年ほど続いた後で、新たな勢力によってその力を奪われていきます。

新たにオリエント地域に現れたのは、インド=ヨーロッパ語族と呼ばれる民族です。いくつかの民族が肥沃な大地を求めて侵入してきましたが、その代表がヒッタイトと呼ばれる民族でした。

ヒッタイトは馬を操り、鉄器や戦車など強力な武器を使用していました。絶大な軍事力を引っ提げて古バビロニア王国を制圧。この地に王国を築きます。

同じ時期、カッシート人と呼ばれる民族もチグリス・ユーフラテス下流付近に侵攻。カッシート王国を築いて栄華を極めます。

ほかにも、ミタンニ人がメソポタミア北部にミタンニ王国を建国。いくつもの新興勢力がこの地に王国を築きしのぎを削りあうという状況が12世紀ごろまで続きました。

古代オリエントの流れ(2)古代エジプトの動き

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エジプトをオリエントに加えるかどうかについては、議論の余地があるようですが、メソポタミア文明と比較する意味でも、この時代の古代エジプト文明の存在は無視できません。開けた土地で多くの民族が入れ代わり立ち代わり多くの国家の栄枯衰退が繰り広げられていたメソポタミアとは異なる歴史を持つエジプト。その流れを追いかけてみましょう。

紀元前5000年頃~:古代エジプト王朝の設立

アフリカ大陸東北部を蛇行しながら南北に流れるナイル川。その流域に栄えたのが古代エジプト王国です。

ナイル川流域には雨季が訪れ、大河は定期的に氾濫を起こして人々を悩ませていました。川の氾濫は恐ろしいものですが、洪水が去った後の大地には、上流から運ばれてきた肥沃な土が広がります。この土は農作に最適でした。

エジプトは古くから、農作を行う集落がたくさん集まり、それがやがてひとつの大きな国家へと成長していきます。これが古代エジプト王朝の始まりです。

古代エジプトは地理的状況などから、他の勢力に侵攻されることが少なく、数千年にわたって代々30もの王朝が継続。そのうちの第6王朝までの時代を古王朝と呼んでいます。

ギザのピラミッドで知られるクフ王は第4王朝。この時代にはすでに、大きなピラミッドを建造する技術が確立していたのです。ナイル川の氾濫時期を知るため、非常に正確な暦も作っていました。

紀元前2000年頃~:エジプト中王国時代

この時期になると、それまでナイル川の下流域の都市メンフィスから、中流域のテーベというところに拠点を移します。

この少し前から、王の権力が弱まって中央政権にかげりが見え始めていました。

ナイル川流域と一口に言ってもかなり広範囲になるため、しばしば「中流域のエジプト(上エジプト)」「下流域のエジプト(下エジプト)と呼ぶことがあります。テーベは上エジプトの都市。ここに拠点を移してからの時代を中王国時代と呼んでいます。

中王国時代もピラミッドが作られていましたが、古王国時代のものほど大きなものが作られることはなかったようです。

中王朝も終盤に差し掛かると、地中海東海岸付近からヒクソスという民族がエジプトに侵攻してきます。ヒクソスはエジプトに王朝をたて、エジプトはこれに従属。ヒクソスの時代はしばらく続きます。

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