古代オリエントの流れ(4)オリエントの統一
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ここまで、様々な民族が交差する複雑な時代が続きましたが、いよいよオリエント一帯を統一する強大な国が現れます。まず、ここまで何度か名前が出ているアッシリア帝国。そしていくつかの王国が分立する時代を経て、ペルシア帝国が誕生。この国が、かなり広範囲にわたってオリエントの制圧を果たします。アッシリアからアケメネス朝ペルシャまでの歩みを見ていきましょう。
紀元前7世紀頃~:アッシリアによるメソポタミア統一
アッシリアは紀元前2000年頃からチグリス川北部に存在していた国でした。
紀元前15世紀頃までは、周辺の国に属する小国でしたが、鉄製の戦車と騎馬隊、強大な力を駆使してめきめきと勢力アップ。紀元前7世紀頃には周辺諸国を制圧して統一王国を築きます。
その勢力はメソポタミアにとどまらず、エジプトやエーゲ海にまで及びました。
鉄器を用いた強力な武器を有した彼らの戦い方は残虐で、周囲から恐れられていたと伝わっています。過激で暴力的な支配が長続きするわけもなく、各地で反乱が勃発。紀元前612年、新バビロニアとメディア王国によって滅亡に追いやられてしまいます。
紀元前612年頃~:四国分立時代
新バビロニア、メディアという名前が登場しましたが、アッシリアの衰退と入れ替わるように、古代オリエントは4つの王国が存在する事態となります。
それが新バビロニア(カルデア)、メディア、リディア、エジプトの4王国です。
新バビロニアはメソポタミア地方、メディアはイラン地方に広大な領地を、リディアは小アジア(現在のトルコ西部の地中海に近い地域)、そしてエジプト王国はもともと古代エジプト王朝があったナイル川下流域に、それぞれ都を構えて国家を設立。四王国分立時代と呼ばれています。
紀元前5世紀頃~:アケメネス朝ペルシアによるオリエント統一
四王国分立を終わらせたのが、かのアケメネス朝ペルシアです。
単に「ペルシア帝国(ペルシアとはイランの古い呼び方)」と呼ばれることもありますが、ペルシアも長く複雑な歴史を持っているので、他の王朝と区別する意味もあってこのような呼び方をしています。
もともとは、メディア王国に属した国でしたが、アケメネス朝キュロス2世のもとメディア王国を打破。アケメネス朝ペルシャの始まりです。
アケメネス朝ペルシアは、それまでオリエント一帯に建国・活動していた国や民族を飲み込んで、広大な領地を統治するまでになりました。西はエジプト、トルコ、ギリシアから、東はインダス川まで、強大な力を得たのです。
アケメネス朝ペルシアは、さらにギリシアを征服しようとペルシア戦争を起こします。しかし戦争は敗退。この後、マケドニアのアレクサンドロス大王によって滅ぼされてしまうのです。
肥沃な大地と交通網が織りなす民族模様~古代オリエントの流れ
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長い長い……古代オリエントと一口にいっても、たくさんの国と民族が登場し、地図と年代と一致させながら読み解いていくだけで目が回りそうです。当時の様子は想像するよりほかにありませんが、これだけ多くの国が入れ代わるところを見ると、この地域がいかに有益で利便性に富んでいたかわかります。それにしても、情報の少ない時代に、よくこれだけの動きが可能になったと改めて感心させられました。また機会があったら、じっくりと古代オリエントの流れを追いかけてみたいです。